サイタ×サイタ

Xシリーズ5作目ということで、「サイタ×サイタ」(森博嗣)読み終わり。大方の予想通り、なにも起こりませんでした(四季が出てくる、とか)。あ、ネタバレ注意です(遅い)。

しかし、小川さんファンとしては、小川さんが一人になったときに、急に内面の脆いところが露わになる空気が大変好きなんだよね。

ただ……、こんなふうに、人生って変わっていくのだな、と思ったことを覚えている。そのときの橋は、彼が亡くなった日に、一人で立って泣いた橋だ。もう、あそこへは行きたくない。行けば、きっと今でも大泣きできるだろう。

こういうとこ。「ライ麦畑で増幅して」*1のときの小川さんの空気、すべてを失ってしまった後の虚無っぽい悲しい空気がね、今でもほとんど完全に保存されていて、ふと立ち止まったときに、出てきてしまう。イメージ的には、「夜、都会、静かな雨」って感じ。
 もちろん、「彼」というのは「ライ麦」のアンプのもとの持ち主なわけですが、彼は、小川さんにとって、森ミステリィ的敬愛対象なんだろう。あ、これはジグβの感想文を書いたときに「森ミステリのパワーバランスを支配するのは、常にこの感覚だ」と書いたけど、萌絵が犀川に、加部谷が海月に抱く感情/感覚と同じ性質のものということ。
 萌絵のストーリーは対象にアプローチしていく過程だったし、加部谷のストーリーはその対象に気づくストーリーだったし(これからどうなるかは知りません)だった。そういうふうに整理すれば、小川さんのストーリーは、その対象を失ったあとの話で、まあ、安っぽく言えば、自分の気持ちとどう決着をつけてくるのか、というのを、気にして読んでいる。
 そういう観点では、前作「ムカシ×ムカシ」はかなり小川さんのコアに触れたテーマだったと思う。ただ、Xシリーズが最後の1作であることを考えると、新たな敬愛対象の存在が小川を救うわけではなさそうだ*2。椙田ともそこまでの関係になっていないし、鷹知も同じく、真鍋くんはまあ、言わずもがな。なので、結局、小川さんは一人で、決着をつけるはず。自分で答えを見つけて、ダマシダマシ生きていくことを選ぶのだろう、と思う。

*1:レタス・フライ Lettuce Fry (講談社文庫)収録

*2:あ、これはミステリーの謎解きではやってはいけないやつだ。残りのページ数から犯人を予測する、みたいな。で、結局ぜんぜん関係ない人が犯人で、フェアじゃない!と叫ぶという…

社会を作れなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門

「社会を作れなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門」を読んだ。ずっと、このブログでは柳田國男のことを「ラスボス」呼ばわりしてきたけども、やっぱり、柳田國男はラスボスだった。これまで、遠野物語そのものとか、赤坂憲夫の遠野物語ガイドとか、中沢新一の南方熊楠本とか読んでて、ああ、柳田國男って、ちょっと僕とは違うな、というか、すごくロマンが強くて、現実に対処するより、そういうロマン的なものに回帰するのが好きな人なんだな、っていう印象だった。だけど、それは実は一面的な見方で、そういうロマン主義的なところもひとつの極としてはあったけど、一方で超がつくほどのリアリストであり、実践主義者であったということだ。正直、もう柳田國男はいいかな、と思っていたところがあったのだけど、これはちょっと裏ボスというか、倒したと思ったけど、実は裏モードではぜんぜん歯がたたなかった!みたいな感じ。

 角川EPUB選書の一番後ろには、「角川EPUB選書発刊に際して」という、新書や選書にはつきものの文章が載っている。ここでは、ツイッターの登場やソーシャル社会の到来などを見据えて発刊していることが記されていて、IT依り、インターネット依りのセレクトであることを伺わせる。だけど、大塚英志は冒頭からいきなりソーシャルな雰囲気に喧嘩を売り始める。ソーシャルとかいっても、ニコニコ動画でMADにくだらんコメントしてるだけだし、Facebookで疲弊してるだけでしょ?企業サイドから見たって、そういうソーシャルの群れからいかにお金を集めるしか考えてない。そんなん、ソーシャルなの?社会の問題を解決することになるの?っていうか、そもそもそれは「社会」と言えるの?という踏み込みをするわけですよ。で、そこまでなら、まあ、アジってるだけかな、と思うんだけど、それで終わりじゃなくて、実はweb上でソーシャルとか言う以前に、日本では「社会」をつくりそこなってんだけどね。と言われる。この時点では、なに言ってんだ、と思うのだけど、読み進んで柳田國男がなにを実践してきたのかを見ていくと、ああ、確かにこの国は「社会をつくる」ことに失敗したんだな、とわかった。
 2012年が柳田國男の没後50年だったわけで、僕が柳田國男に触れ始めたのもその頃だったわけだけど、「これを機に!」と発売された柳田國男本は、ほとんど彼の文学的な側面に光を当てるものだった。民俗学、妖怪、怪談ブーム。
 僕が柳田國男について至った結論は、柳田國男は日本人に『物語』を提示することで、近代化・都市化の進む日本において、日本人はどこから来たのか?というルーツの解答例を提示して、精神的にはひとつではなかった各地域の人びとに、日本人としてのまとまりを与えようとしたんだろうなぁ、というものだった。これは、ある意味で正解であったけど、そんな漠としたものよりも、もっと明確に求めたものがあったという。田山花袋の小説には、柳田をモデルにしたキャラクターが出てきて、こう言う。

『僕はもう詩などに満足していられない。これからは実際社会に入るんだ。戦うだけは戦うのだ。現に、僕はもう態度を改めた!』『詩などやめなくっても好いじゃないか。』『それは、君などはやめなくっても好いさ。君などはそれが目的なんだから……。けれど僕は文学が目的ではない。僕の詩はディレッタンチズムだった。僕はもう覚めた。恋歌を作ったッて何になる!その暇があるなら農政学を一頁でも読むほうが好い。』

これですよ。もう、涙がでるほど共感する。現に柳田は農商務省に入って、農民の生活がどうすれば良くなるか、ということを考え続ける。普通選挙法の施行に加担する。普通選挙が実質的に機能するには、有権者の育成が必要と考えて、自身の学問をある種の社会運動にしようと、民俗学の入門書や組織をつくる。こういうことをやっていった人間だ、と。大塚英志はこんなふうに言っている。

「公民の民俗学」構想は一貫して「公民」、つまり「社会」を自ら作り上げていく担い手を具体的に作っていくマニュアル作りであり、その実践だった、と言えます。

「賢こくなる」のは「私たち」でも「農民」や「民衆」や「日本人」でもないのですね。そうではなくて「社会」が「いくらでも賢こくなれる」という言い方であることに注意しましょう。「社会」というのは「問題解決の枠組み」であり、主体なんですね。

「絆」とか「つながり」と呼ばれて情緒的に美化されているものを柳田はこの時、むしろ疑っているんですね。

驚いた。壮大なロマンチスト、強大な文学の磁場、そういう存在だと思っていた柳田國男がこれほどまで社会に対する意志を持ち、実践的な人間だったとは。何より、柳田國男が「公民をつくらなくては」と考えたころから、日本の社会はほとんどなにも変わっていないのではないか。大塚英志が「柳田國男を学べ」という理由が痛いほどわかる。もう一度、柳田國男とその周辺を学んでいきたい。ロマンチストでありながら、最後まで実践的だった人間について

エネルギー問題入門

オアゾ丸善が謎の大プッシュだったので手に取りました。「エネルギー問題入門」というタイトルではあるが、読み進めると、テーマとしては「アメリカのエネルギー問題」であり、「政策決定者としてどうふるまうか」がクリティカルクエッションになっていることがわかる。ふーん、と思って原題を見てみると、"Energy for Future President"で、なるほど。こっちのほうが良かったのでは。売れないと思うけど。以下、メモ型記述。

エネルギー問題入門―カリフォルニア大学バークレー校特別講義

エネルギー問題入門―カリフォルニア大学バークレー校特別講義

エネルギー安全保障と気候変動

・本書で繰り返し語られるのが、政策決定の際に考慮しなければいけないのが、エネルギー安全保障だと気候変動、ということ。あるエネルギー問題について、両者が矛盾することはよくある。
・一人あたりGDPと一人あたり一次エネルギー消費量には相関関係があるので、地球温暖化の解決には、中国をどうするか?が肝心であり、先進国のみのエネルギー対策には限界がある。
・理論的には例えば、中国に技術移転することで、石炭利用→天然ガス利用へとシフトさせることで、CO2排出量は減少するはず。
・ただ、こうした対策は常に国家間利害調整の影響を受ける。
・石油価格の変動により、採掘可能な石油埋蔵量は増減する。採掘コスト<石油価格となってはじめて「採掘可能」となるため。
・石油のほうが石炭よりも低コストで利用できるのは、石油用のインフラが広く普及しているからに過ぎない(パイプライン、自動車など)。もちろん、石油のほうが運搬しやすい、残滓が発生しないなどの強みはあるが、石油用のインフラがなければ、石油を効率的に利用できない。同様に、石炭用のインフラがなければ、石炭を効率的に利用できない。
・このため、中東は「儲けが出るから」というスキームとは別に、「石油価格が下がり過ぎ、各国のインフラが石炭用にシフトすると、石油の利用がそもそも非効率になり、競争力を持ちにくくなる」ことを懸念している。
シェールオイルシェールガスは米国のエネルギー安全保障の要。中東からのエネルギー供給が途絶えた場合でも、軍隊を動かすことができるため。

原子力発電について

・原子炉が原子爆弾のように爆発することは原理上あり得ない。(低濃縮ウランと高濃縮ウラン)
ウラニウムの枯渇には、現行使用で9000年程度かかるとされている。
・核廃棄物については、稼働停止後100年後に、「10%の廃棄物が漏洩する可能性が10%ある貯蔵システム」に貯蔵することで、地中にウラニウムが貯蔵されていた時と同程度の安全性となる。
・本書ではこれをもって、技術的には核廃棄物問題は解決済みとしているが、これを現実に適用すると、100年という期間が必要であること、例えば日本ではウランが地下にまとまって自然存在している箇所はそう多くない(鉱山があったのは、岡山県人形峠福島県石川くらい?)ことを考えると「技術的に解決」はかなり勇み足。
・地下から採掘した直後のウランの放射能比を1とすると、原子炉停止後100年後は、この放射能比が100となる。「10%の廃棄物が漏洩する可能性が10%ある貯蔵システム」なら100*0.1*0.1=1.00としているから同程度と言いたいのだろうけど、これでは、言い方を変えると「漏洩の可能性は10%あり、その際は最大で採掘直後の100倍の放射能比となる」と言っているに等しく、確かにリスクの掛け算としては正しいのだろうけど、ウラン鉱山の年間被曝量は64〜90ミリシーベルトだから、漏洩時は6400〜9600ミリシーベルトなので、ふつうに被曝して死に至るレベルですよ。距離減衰率とかわからないけど。

太陽光発電風力発電について

・本書では、現行テクノロジーの発電量から、太陽光と風力は有力だが、地熱や潮力、波力などは新エネルギーとしてはそれほど有効でないとみなしている。
・本書(原著)出版後の日本の現状を見ればそれも正しいと言えるかも。ただ、日本は固定価格買取制度の失敗(太陽光の一極集中型優遇)が裏目に出始めているので(まあ十分予想できたけど)、ここんとこは要対応。
スマートグリッドや送電網、デマンドレスポンスについての記述はほとんどなし。直近ではこういう、どうやってエネルギー(電気)を移動させ配分するかが鍵になってくると思っているので、ここに触れていないのは少し問題ありと思う。

タタール人の砂漠

タタール人の砂漠」を読み終わる。スゴ本さんのブログで見てから、ずっと読みたいなーと思っていて、温めていた(積ん読のきれいな言い方)。あとがきを含め、読めば読むほどなんでこれを書いたのか、書けたのかさっぱりわからないけど、とにかく身に迫るものがある。読まずには死ねない。

 あらすじ。主人公ドローゴは砦に派遣される。砦は退屈な場所だ。地方にある砦では、都会の華やかさはない。要所というわけでもない砦では、戦の緊張感もない。そこにあるのは、広大な砂漠だけだ。しかし、ひとつだけ希望がある。タタール人の襲来。孤軍奮闘する砦の兵士たち。その熱狂。それだけを希望とし、生きる意味とし、ドローゴはタタール人を待ち続ける。
 要は、人間の希望が時間によって色褪せていって、どうしようもなく摩耗していってしまう物語。あとがき読むとびっくりするのが、これが、WW2のさなかに書かれたということ。「何も変わらない現実の繰り返しにどう抗うか?」っていうのは、どう考えたって、ある程度豊かになって、危機感が薄れている時代の物語であって、戦時中とかに書ける物語にはとーてい思えないわけですよ。この時代だったら、もっとファシズムを糾弾するとか、そういう作家活動があるはずなのに。
 以前、丸谷才一の「笹まくら」を読んだときに、「笹まくらは戦争を描いたからすごいんじゃなくて、もっと普遍的な価値がありますよ!」って書いたんだけど、「タタール人の砂漠」は更にその上をいく。時代が求めていそうなテーマをほっぽり出して、現代にも通用する普遍性の高い物語を提示している。
 人間は常になにかを期待して生きているわけで、例えばビジネスでの革新的な成功だったり、もっとシンプルに大金持ちになることだったり、100%理想的な白馬の王子様を手に入れることだったり、まあ、なんでもいいけど。基本的には外環境に依る部分がほとんどだけど、努力して到達できないことはないように思える。
 でも、それって起きないんですよ。いや、世界のどこかでは起きているはずで、でも自分に、まさに自分という一個人にそれが起きえるかというと、起きない。いやもちろん、すごい努力してそうなるように行動すれば、起きないとも言い切れない。起きるかもしれないではないか、と。それが、「希望」です。「タタール人」です。
 機を待ち続ける、ということは、いかに人をほこりまみれにしてしまうものか。今はそのイベントが起こるまでの準備期間と自分に言い聞かせ続け、しかし、そのイベントは起こらず焦り、まだこれからだ、と言い続ける人生。そのなかで、人間がどう変わってしまうのか。変わるはずのないと信じていた思いが、時間という大きな力の前でいかに無力であるか。
 生き方としての「解」は、まあだいたいわかっていて、「今を生きる」「今を楽しむ」というのが正解。人生に準備期間などなく、例え大きな目的と違っても、目の前のことに全力を尽くしながら、目の前のことを楽しみながら進み、必要であればビジョンを微修正しながら先へ進む。これしかない。
 しかし、そうわかっていてもなお、時間と怠惰に飲み込まれ、タタール人を待ってしまう。良い悪いではなく、人間とはそもそもそういうものなんだなーと思う。やっぱり、矛盾を心に持ち続けられるところが人のすごいところなので、葛藤とか嫉妬とかそういう感情って、人間らしい、大事なものと思う(適度な距離をもって注意して観るぶんには)。だから、タタール人を待ってしまうのも、自分の生き方としてはNGでも、たぶんきれいさっぱり消えてしまうものでは絶対ないので、うまくつきあっていくしかないのだな、と。

転職のご報告

転職することにしました。やっぱり環境系でいきたい、ということで、シンクタンクの環境・エネルギー部門にて、研究員として働きます。なぜ若者は3年で辞めるのか?っていう感じですが、以下に少し備忘を残しておきます。

やっぱりコンサルじゃない3つの理由

 自分はコンサル向きではないな。というのが2.5年働いた結論。この手の感想は、1年目あたりでも感じたけれど、そのときはまあ、アレルギーみたいなもので、正常な判断はできない状態にあったと思う。だけど、今は明確にわかる。
 まず、ソリューションづくりにそんなにコダワリがないこと。むしろ、リサーチ。どういう仕組みや構造になっているかを調べるほうが、圧倒的に自分に向いているようだ。これ、嫌いな人は多分大嫌いで、地味でつまらない仕事に見えるようなのだけれど、自分はソリューション<リサーチでした。
 2つめは、分野への執着がやっぱりあったこと。進路決定時のエントリでも「いずれ「戻ってくる」つもり」と書いたけど、想像以上に早い帰還となった。「好きを仕事に」というのとは少し違うのだけど、「こんなことしてる場合じゃないな」っていう仕事が多くて、この先も3年はそういう見通しが立ってしまったので、転職の決意が固まった。
 3つめは、生活基盤のことで、給与とかも色々見てみて、年収100万くらいは下がっても仕方がないかな、キャリアチェンジだし。と思っていたけれど、なんだかんだ言って、ほぼ同額でシフトできそうだったのは大きい。

転職活動の雑感

 転職エージェントを使ったけど、正直、インテリジェンス(DODA)やリクルート(リクナビNEXT)は使えなかった。あれは、通常のキャリアを踏んできた人が、その延長線上で転職するときに役立つものであって(例えば、ITエンジニアやってた人が新しい環境を求めてIT業界で転職する、とか)、キャリアチェンジとか、ニッチな市場での転職にはぜんぜん向いていないようだ。彼らは基本、社内WEBでキーワード検索して出てきた非公開求人を出してきているだけで、非公開求人は見たいけど、それ以外で特に期待できるところはない。
 結局僕は、業界専門の小さな転職企業のエージェントを使ったが、そこはもう、的確に求人を出してくれて、業界の仕組みをかなり正確に説明してくれて、もう、転職とかは別に、その話だけでも満足できるくらいだった。エージェントの方はタイミング次第だと言うものの、紹介してもらった一企業だけを受けて、転職活動は終了した。賃貸物件選びは不動屋さん選びと一緒と言うけど、転職活動もエージェント選びが大切なようだ。
 プロジェクトの切れ目をつくるのが大変という話は聞いていたので、かなり機は伺ったためか、社内の摩擦はほとんどなかった。唯一直属の上司だけが、嫌味を言われまくったけど、まあ色々期待/投資していただいたので、仕方ないかなーとも思う。期待いただいている方ほど、早めに情報を伝えてあげたほうがいいと思う。

今後について

 社会人最初の5年間は、修行の5年間と思っていたが、想像よりも早く、終わらせることになった。次の5〜10年は「専門性を確立するための期間」と位置づけている。将来なにをするにしても、この期間で培った専門性がコアになるだろう。
 正直、これまでは「迷って」いた。「ここで戦うのだ」という結論をずっと先延ばしにしてきた。広く観ることが大切と、ずっと考えてきた。でももう、そのステージではない。自由を失うというのではなく、遠くを見通すための土台を築かなくてはならない。それにふさわしい場所を選んだ。なので、あとは全力を尽くすだけ。今までサポートしていただいた皆様、本当にお世話になりました。ありがとうございました。

ジモティーの使い勝手が存外に良かった話

 必要なモノと必要のないモノしか所有したくない、と思っている。全集合だろって?いや、そうではなくて、必要なモノと必要でないモノの間には、必要かもしれないモノとか、将来必要になるかもしれないモノとか、そういうグレーゾーンが広陵と広がっているわけですよ。
 その辺を所有しはじめると、家がモノであふれる。だから、どうしても必要なモノと、絶対に必要はないけどどうしても欲しいモノ。これらだけで空間は満たされるべき。
 東京にはモノが溢れているので、自分の必要なモノが毎日毎日処分されていると思って間違いない。駒込に住んでいたときに使っていたレンジ台は移転した事務所から譲り受けたものだし、テーブルは前の住人のもの。今の家でずっと使っていた冷蔵庫と洗濯機は同期から貰ったものだ。
 逆に、自分が譲るときは「ご自由にお持ち下さい」と書いた紙を貼って道端に放置したり、Facebookとかで連絡したりしていたけど、なんか、もっとスマートに、より必要な人に、より適切な条件で譲れるはずだ。その辺はWEBでできるだろうなーと思って探すと、ジモティーなるサービスがある。
ジモティー 無料の広告掲示板

 かなりスパッと決まって良かった。出品から1時間30分で、自分の指定した日時に、車で自宅まで取りに来る人と交渉成立するというのはすごい。一応念のため、ステマではないです。使って感謝できたサービスを自発的に褒めるのは自然な行動である。

ジモティーで出品するときのポイント走り書き

今回、自分が出品したときのやり方をもとに、出品するのポイントを書いてみる。
・タイトルは「アピールポイント+出品物名」(全角33文字)。文字制限を超えると、検索画面では省略されるが、続きが気になるタイトルにできれば効果的か?
・たくさん連絡が来る状況では、タイトルに「【交渉中】」と入れると、連絡がほぼ途絶える。
・本文書き出しは全角48文字まで検索画面に表示される。交渉中・取引先決定などの情報を付記していくのに適しているかも。
・本文冒頭には、「キズがあるが優れたデザイン」「安物だがシンプルで良い」「長年使ったが全然使える」など、マイナスがあるけど良い、というメッセージを入れると納得感が高まるっぽい。
・本文にはできるだけ多くの情報の載せるべき。そうでないと、情報の問い合わせがたくさん来てコミュニケーションコストがむしろ上がる。
・写真も同様。背面の写真が見たいとか、傷の拡大写真などが求められる場合もあるかも。マイナス面は積極的に見せていく姿勢。それでも貰ってくれる人を優先すべき。
・出品物の情報。サイズは縦×横×高で必ず書くべし。
・取引条件。駅まで持って行ってもいいのか、自宅まで取りに来てもらいたいのか、配送OKなのか。条件によって応募可能な人数がかなり変わるはずなので必須。
・問い合わせメールになにを書いてきてほしいか。今回ミスったと思ったのがこれ。匿名の人とか、ただ「欲しいです」だけの人とか、明らかに条件読んでない人とか。トラブルは徹底して避けたいので、例えば「車で取りにきていただきたいので、どのような車で取りに来るかを明記下さい。例:ミニバン、軽トラなど」とか書いておくといいかも。
・問い合わせが来ても、早い人順に返信しない。スクリーニングして、より条件が良い人、トラブルのリスクが低そうな人に優先的に連絡すべき。問い合わせメールを見ればすぐにわかる。また、ジモティーユーザーは出品情報がユーザーページから確認できるので、そこから、どういうヒトかを想像したほうがいいかも。(1回だけ出品して、それ以降は買う側に回っている人も多いようだ)
・条件は厳しく設定してもいいかも。買い手がつかなくて初めて、条件を緩めれば良い。(特に価格、スケジュール)
・内容を更新すると、検索順位が上がる。基本は新しい投稿順に並んでいるのだけど、本文を更新したりすると、検索順位が上がるので、こまめに更新すると、常に上のほうに表示される。まあ、そのうち対策されるだろう(有料で上のほうに表示するオプションがあるので)

東京から出品すると、千葉や埼玉あたりからは普通に問い合わせがくる。車で取りに来るっぽい。みなさんすごいっすね。うまく使えば便利だけど、トラブルはきっと起きやすいと思う。その辺、しっかり戦略は必要だろう。本当はサービス提供側の問題かもしれないけど。

昭和のヒーローゴジラとしては満点、だけど、そこには「ゴジラ」に固有のメッセージはない。

けっこう、イマサラ感ありますが、ゴジラ(ハリウッド2014版)見てきました。ちゃんと怪獣映画してて良かったです。

これは、昭和のヒーローゴジラ

 Empireゴジラ特集を読むと、東宝とのお約束として、(1)核に関連する事故によって目を覚ますこと、(2)その事象は日本で起こること、ということだったそうで。これが、実は東日本大震災より前の約定だった。福島の原発事故は、間違いなく開幕として相応しいイベント。

Empire [UK] April 2014 (単号)

Empire [UK] April 2014 (単号)

 これを、日本人が作れなかったというのは、「いいんでしょうか?」と少し思う。ドキュメンタリーは多くつくられたのだと思うけど、原爆に呼応して1954年版ゴジラがつくられたように、フクシマに呼応して2010年代のゴジラが日本人によってつくられなかった、というのは、複雑な気持ちではある。
 と、見始めは思ってたんだけど、途中で、そうでもないな、と思った。なぜって、これ、結局、昭和の「ゴジラ対○○」をリスペクトしてつくられている。そういう意味で、エンタメとして、すごくよくできてる。ネタバレしますが、「ゴジラじゃなくてMUTOだった!」とか「熱線放射時に背ビレが光る演出!」とか「口移し放射熱線!」とか、見どころに事欠かない。

1954年の「アンコントローラブルな」ゴジラではない

 なので、よくもわるくも、これって日本の、1954年の「ゴジラ」じゃないよなーと。そりゃそうだろって思うかもしれないけど、なにが違うって、前も書いたけど、1954年のゴジラはやっぱり「アンコントローラブル」な存在なんだよね。その後、アンコントローラブル成分は昭和の「ゴジラ対○○」で失われていって、最終的には人間のヒーローと化してしまうんだけど、2014版ゴジラは、この毒気の抜かれた、ヒーローゴジラだ、と思う。昭和のヒーローゴジラをリスペクトしているんだろうけど、それはちょっと、もったいない、というか、秀作にはなるけど、それ以上にはなれないんじゃないか、という気がする。
 しかも、日本じゃなくてアメリカなんだから、事態をコントロールしようとするに決まってる。すごーく印象的だったのは、ゴジラが泳いでいるのを、アメリカの空母が護送しているシーン。あー、こうなるのかーって思った。このシーンって、米軍が他国の船を護送しているのと同じように見えるんだよね。
 いくらゴジラがコントロールできないって言っても、それはアルカイダをコントロールしきれない、ISISをコントロールできない、みたいなもんで、最終的には圧倒的なマネジメント能力と軍事力でなんとかしちゃうんだろう、というか、現実としてはもしかしたらそれで正しいのかもしれないけど、それって、1954年のゴジラじゃないんですよ。いくら芹沢博士(新)が、あいつは人間にはコントロールできませんよ的な発言してたって、結局米軍なんとかしちゃってるじゃん、と思う。いやまあ、それがアメリカなんですよ、というのは、まあそうなんだろうけど、そこには「ゴジラ」に固有のメッセージはない。disastrousなことが起こって、それをなんとか収束させるのは、別に他のすべてのハリウッド映画がどれもやってることだ。なんでみんな「この話はガンダムでやる必要がない」って言うのに、「この話はゴジラでやる必要がない」って言わないんだろう?怪獣映画に飢えてたからかなあ?
 しつこいけど、1954年のゴジラを止めたのは、日本の軍事力じゃなくて、オキシジェン・デストロイヤーじゃなくて、芹沢博士だ。結論。まあ、ゴジラにはもっと暴れてほしい、ということで。

S.H.モンスターアーツ ゴジラ (2014)

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