代返するくらいなら……

 代返なんか、するんじゃなかった。
 「代返」というのは、大学の講義で出席をとるとき、出席カードに友達の名前を書いて、出席したことにする、という、まあ、インチキである。
 僕は基本的に、受講した講義にはすべて出席して本を読んでいるマジメなタイプなので、極めて有能な代返プレイヤーと言えよう。
 大学の入学式以来のつきあいであるI氏も、僕に代返を頼んできたことがあった。まったくもって正しい人選だ。僕が代返してあげた回数が、三桁に届きそうな某氏を別とすれば、彼の代返もそれなりに経験したことになる。
 それが、である。全く無駄になった。もっとも、ここまでの前置きは、明らかに僕の呼吸を整える役割しか果たしておらず、完全に動転している。出だしの一文からこのあたりまでの構成を考えていたが、どうも本題に入れる気がしない。だいたい、無駄だとか、そんなこと、ほんとは思ってもいない。些末なことだ。
 もうね、書いてしまおう。








 彼は、自殺したのだ。
 受け止め方は、いろいろあるみたいだ。「どうして」と理由付けを求める人。そういう選択をとったことが許せない人。「なにかできたのではないか」と後悔する人。
 そんな、客観的に書いてどうするのだろう。みんな自分のなかにいる「人」の声なのに。昔からそうだ。僕は、精神的な弱さを客観視で守ろうとする癖がある。
 最後に会ったのは3ヶ月ほど前だろうか。昼食をとりながら、卒論の話とか、オカルト用語の話とかして、そのまま別れた。これが毎日のことだったら、なにか違っていたのかもしれない。
 こういった思考が、すべて無駄だ。なにを考えても、なにを仮定しても、意味がない。「これからは誰の自殺も許さない」「人づきあいも深める」そういった前向きな主張も、まだ早い。自分でつくった言葉さえ、受け入れられない。
 もう、彼の口から楽しいオカルト話は聞けない。もう、彼の議論の穴をついても、感心してもらえない。もう、彼に代返のお礼を言ってもらうことはできない。
 代返するくらいなら、一緒に講義をサボればよかったのだ。