イノベーターの条件

「イノベーターの条件」(P.F.ドラッカー)読了。
その機能という面から社会を理解する。

目次
Part 1 激動の転換期にある社会
1章 社会の存在を当然としてはならない
2章 経済至上主義は人を幸せにするか
3章 二〇世紀の変化の本質は何か
4章 多元社会における組織の原理
5章 起業家社会の到来は何を意味するか
6章 NPOはなぜ成功したのか
Part 2 断絶後の経済
1章 「継続の時代」は終わった
2章 世界経済の変貌がもつ意味
Part 3 模索する政治
1章 理性崇拝は何をもたらすか
2章 改革の原理としての正統保守主義
3章 社会の問題に唯一の正解はない
4章「利害による連合」の終わり
5章 国民国家から大国家(メガステイト)へ
6章 高齢者が政治を動かす
Part 4 問われる知識と教育
1章 知識の政治学
2章 学校が劇的に変わる
3章 分析から知覚へー21世紀の社会と世界観
付章 もう一人のキルケゴールー人間の実在はいかにして可能か

 はじめて読むドラッカーシリーズ3冊目。今回は「社会編」。社会とはなにか?どういった歴史を辿り、どういったかたちへ移行していくのか?その本質はどこにあるのか?そういった社会についてのエッセンスである。1冊目が個人に、2冊目が組織にスポットライトを当てたのに対し、本書はそのさらに上のスケール「社会」に焦点を合わせたもの。
 ドラッカーによれば、社会を定義することは困難を極めるが、機能の面から社会を理解することはできるという。

社会は、一人ひとりの人間に「位置づけ」と「役割」を与え、そこにある権力が「正当性」をもつとき、はじめて機能する。

権力の正当性、知識と権力の関係

 権力の正当性とはいったいなんだろうか?リーダーシップの延長から始まり、古くは王権神授説、民主主義においては民主主義的であることが、「正当性」の根拠であっただろう。だが、それは具体例であって、正当性の本質ではない。

したがって今日、知識ある者が自らの責任を自覚していなくても驚くには当たらない。彼らも、かつて権力を握ったほかの者たちと変わるところはない。彼らは、自らの地位は、自らの価値に由来しており、純粋でさえありさえすればよいとする。(中略)だが、彼ら知識に関わる者もまた、やがては、力を正当化するものは責任であることを知るに至る。

太字は僕。サイエンスの方角から見ると、理系サイドの人間は知識が純粋でないことに気がついている。純粋な科学への憧憬と実際の社会との摩擦に触れる機会があるからだ。むしろ、そうでない人々は、純粋であることが正当性の根拠であると誤解しがちであるように思う。
 「知識(知力)=権力」と責任とが結びつきづらいのは、知識と権力が結びついてから、未だ日が浅いからだろう。ドラッカーは知識は「飾りに過ぎなかった」と表現した。しかし、今は異なる。知識は権力を持ち、その力を継続的に行使するには、責任によって正当性を示さなければならない。

目指すべき社会は?

 はっきり言って咀嚼しきれているわけではないのだが、Part1の「経済至上主義は人を幸せにするか」で述べられているように、社会全体としては経済発展を必ずしも望んでいない。むしろ「安定」を望んでいる。安定のためなら経済発展を犠牲にすると、ドラッカーはそのように社会を見た。経済が社会を大きく変革したように、ポスト経済みたいななにかが必要だ。

経済人に代わるべき新しい概念が何一つ用意されていないことが、現代の特徴である。自由と平等を実現すべき人間活動の新しい領域は提示されていない。

 自由と平等が至上命題でいいのか、というような疑問はある。保留にしてある。目標から決定しないと始まらないような気もするが、目標を設定したところで、一直線に向かえるところでもないので、忘れないようにしておくくらいで丁度いいかも。