遠野物語は、民俗学のテキストなんかではない

 レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」岡本太郎が求めた民族学南方熊楠の民俗学を辿ってきて、やはり、どこにでもその影を落とす柳田國男。日本で民俗学を考える上で外すことができない巨人だっていうことはわかるんだけど、とりあえず手にとった遠野物語は数十ページでの挫折。僕が柳田國男からこの領域に入り込まなかった理由はもはや明確だ。「柳田國男が人々の激しい競争の歴史を見出したものに、南方熊楠がただのリアス式海岸を見た」というエピソードは象徴的で、柳田國男は、現実をしっかり見据えようとする観察と科学をベースとするリアル重視の見方をしなかった、ということ。

 柳田國男が持っていた文学の磁場はあまりにも強くて、ぼけっとしてると、みんなそこに回収されてしまうようなんですね。いやまあ、本家のテクストをまともに読まないでこんなことを言うのも違うのかな、と思うのだけれど。やっぱり、僕にとって「読めない」というのは、考え方に根本的な断絶があるときなので。
 なので、外堀から埋めようと思って、「婆の誘い」も楽しく読ませていただいた赤坂憲雄の「柳田國男を読む」を手に取った。なんで赤坂さんがケガレとか差別とかにこだわっているのかよくわからなかったんだけど、この本でようやくわかった。それは柳田國男の取りこぼしというか、あるいは意図的に排除したものであって、その辺を深めていくと、柳田國男が隠していたもの、日本の民俗学で明らかになっていなかったものが明らかになる、ということなんだと思う。

柳田の「民俗学」には、柳田その人のきわめて個人的な欲望や無意識の資質といったものが、あまりにも色濃く貼りついている。たとえば、家永続の願いに発する祖先信仰の重視や、どこか偏愛めいた執着にもとづく稲作一元論的な志向(後略)

柳田はおそらく気付いたはずだ、喜善という東北の風土が分泌した身体に宿された物語が噴出する瞬間に、いま自身が立ち会っていることに。いや、そうではない、残念ながら柳田は気付かなかったのだ。だから、みずからの研ぎ澄まされた近代の文体をもって、迷うことなく喜善の物語りする身体をねじ伏せ、殺した。

 柳田國男が信じていたのは、日本民族の祖先は単一であって、その祖先は西からやってきた、という壮大なストーリーらしい。これは、やっぱりラスボスですね。まあ実際その辺の事実がなんなのかは研究者ではないのでよくわからないけど、民俗学として柳田の思想を眺めるのであれば、それはバックグラウンドでどういうことを考えているのか、という柳田ワールドにもしっかり思いを馳せておかないと、ラスボス柳田國男の世界に洗脳されてしまう、文学の磁場に囚われてしまう、ということなんだろう。要するに、遠野物語民俗学のテキストなんかではない。それは、巨人、柳田國男の文学作品なんだ。

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)