どうやって今の我々があるのか?を忘れないために。
リョサの「緑の家」を読み終わる。「密林の語り部」が先で良かった。彼がどこを目指して物語を紡いでいるのかがわからないと、何のための物語か、きっとわからなくなってしまう。
- 作者: M.バルガス=リョサ,木村榮一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2010/08/20
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こうしたフラッシュバックのなかで立ち現れるのは、現代化した南米の都市(タクシーも走っている)や、教会が「未開」の部族から子どもをさらってきて教化する現実。急速に現代化/西洋化/キリスト教化が進む南米。
「密林の語り部」でもそうだったけど、リョサは「南米の現実」を淡々と描くんだよね。マルケスの描く密林は「超常現象すら起き得る場所」だったけど、リョサの描く密林は、かつては超常現象すら起きる場所だったが、そうした余地が物質的・思想的な教化によって失われ、都市と同化していく、まさにその過程。
だけど、どうやらこれは、よくありがちな近代化批判ではない、ようなのだ。むしろ、なんとかして失われつつある「神話」を再構築しようとしている、のではないか。
ふつうの物語は時系列で進む。つまり、こんなように。
ある日ピウラ村にアンセルモさんがやってきて売春宿「緑の家」を建てました。「緑の家」は村人の熱狂を集めますが、神父さんに批判され、最終的には焼かれてしまいます。
が、神話は違う。伝説的な存在が先にあり、その存在がどのようにして成立したかを物語る。つまり、
かつてピウラ村には人々の熱狂を集めた売春宿「緑の家」がありました。それはそれは人々の熱狂を集めました。「緑の家」はもともと、アンセルモさんに建てられたのでした。アンセルモさんは…
こうした構造がいたるところに潜んでいる。そして、この構造を取るところはいずれも、外来のもの(西洋的なもの、キリスト教的なもの)を密林がどのように受け入れ、同化していったか、という物語である。あるときは拒絶し、あるときは受容し、またあるときは留保する。そうして最終的に、現代の南米社会に接続するようになっている。
リョサが危惧しているのは、近代化そのものなどではなく、近代化を南米がどう受け入れてきたのか、どうやって今の我々があるのか、という物語を忘却してしまうのではないか、というところにある。
それを忘れてしまうのであれば、もうそれは西洋人のまがいものになってしまう。我々がどこへ往くのかは知らなくとも、どこから来たのかは知っていなければならない。神話がそれを為していたように、物語がその共同幻想を支えるべきだ。そう考えているのだろう。
- 作者: バルガス=リョサ,西村英一郎
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