どうやって今の我々があるのか?を忘れないために。

 リョサの「緑の家」を読み終わる。「密林の語り部」が先で良かった。彼がどこを目指して物語を紡いでいるのかがわからないと、何のための物語か、きっとわからなくなってしまう。

緑の家(上) (岩波文庫)

緑の家(上) (岩波文庫)

 絡み合う複数のストーリーと時系列。「難解」というよりも、異なる登場人物による異なる場面をフラッシュバック的に見せられるために、物語が追いにくくなっている。ここでも「密林」「南米文学」というマジックワードが有効で、「わかりにくさ」はそのまま密林的(=現代の西洋社会が指向してきた一軸的な考え方に束縛されない)と理解される。
 こうしたフラッシュバックのなかで立ち現れるのは、現代化した南米の都市(タクシーも走っている)や、教会が「未開」の部族から子どもをさらってきて教化する現実。急速に現代化/西洋化/キリスト教化が進む南米。
 「密林の語り部」でもそうだったけど、リョサは「南米の現実」を淡々と描くんだよね。マルケスの描く密林は「超常現象すら起き得る場所」だったけど、リョサの描く密林は、かつては超常現象すら起きる場所だったが、そうした余地が物質的・思想的な教化によって失われ、都市と同化していく、まさにその過程。
 だけど、どうやらこれは、よくありがちな近代化批判ではない、ようなのだ。むしろ、なんとかして失われつつある「神話」を再構築しようとしている、のではないか。
ふつうの物語は時系列で進む。つまり、こんなように。

ある日ピウラ村にアンセルモさんがやってきて売春宿「緑の家」を建てました。「緑の家」は村人の熱狂を集めますが、神父さんに批判され、最終的には焼かれてしまいます。

が、神話は違う。伝説的な存在が先にあり、その存在がどのようにして成立したかを物語る。つまり、

かつてピウラ村には人々の熱狂を集めた売春宿「緑の家」がありました。それはそれは人々の熱狂を集めました。「緑の家」はもともと、アンセルモさんに建てられたのでした。アンセルモさんは…

 こうした構造がいたるところに潜んでいる。そして、この構造を取るところはいずれも、外来のもの(西洋的なもの、キリスト教的なもの)を密林がどのように受け入れ、同化していったか、という物語である。あるときは拒絶し、あるときは受容し、またあるときは留保する。そうして最終的に、現代の南米社会に接続するようになっている。
 リョサが危惧しているのは、近代化そのものなどではなく、近代化を南米がどう受け入れてきたのか、どうやって今の我々があるのか、という物語を忘却してしまうのではないか、というところにある。
 それを忘れてしまうのであれば、もうそれは西洋人のまがいものになってしまう。我々がどこへ往くのかは知らなくとも、どこから来たのかは知っていなければならない。神話がそれを為していたように、物語がその共同幻想を支えるべきだ。そう考えているのだろう。

密林の語り部 (岩波文庫)

密林の語り部 (岩波文庫)