タタール人の砂漠

タタール人の砂漠」を読み終わる。スゴ本さんのブログで見てから、ずっと読みたいなーと思っていて、温めていた(積ん読のきれいな言い方)。あとがきを含め、読めば読むほどなんでこれを書いたのか、書けたのかさっぱりわからないけど、とにかく身に迫るものがある。読まずには死ねない。

 あらすじ。主人公ドローゴは砦に派遣される。砦は退屈な場所だ。地方にある砦では、都会の華やかさはない。要所というわけでもない砦では、戦の緊張感もない。そこにあるのは、広大な砂漠だけだ。しかし、ひとつだけ希望がある。タタール人の襲来。孤軍奮闘する砦の兵士たち。その熱狂。それだけを希望とし、生きる意味とし、ドローゴはタタール人を待ち続ける。
 要は、人間の希望が時間によって色褪せていって、どうしようもなく摩耗していってしまう物語。あとがき読むとびっくりするのが、これが、WW2のさなかに書かれたということ。「何も変わらない現実の繰り返しにどう抗うか?」っていうのは、どう考えたって、ある程度豊かになって、危機感が薄れている時代の物語であって、戦時中とかに書ける物語にはとーてい思えないわけですよ。この時代だったら、もっとファシズムを糾弾するとか、そういう作家活動があるはずなのに。
 以前、丸谷才一の「笹まくら」を読んだときに、「笹まくらは戦争を描いたからすごいんじゃなくて、もっと普遍的な価値がありますよ!」って書いたんだけど、「タタール人の砂漠」は更にその上をいく。時代が求めていそうなテーマをほっぽり出して、現代にも通用する普遍性の高い物語を提示している。
 人間は常になにかを期待して生きているわけで、例えばビジネスでの革新的な成功だったり、もっとシンプルに大金持ちになることだったり、100%理想的な白馬の王子様を手に入れることだったり、まあ、なんでもいいけど。基本的には外環境に依る部分がほとんどだけど、努力して到達できないことはないように思える。
 でも、それって起きないんですよ。いや、世界のどこかでは起きているはずで、でも自分に、まさに自分という一個人にそれが起きえるかというと、起きない。いやもちろん、すごい努力してそうなるように行動すれば、起きないとも言い切れない。起きるかもしれないではないか、と。それが、「希望」です。「タタール人」です。
 機を待ち続ける、ということは、いかに人をほこりまみれにしてしまうものか。今はそのイベントが起こるまでの準備期間と自分に言い聞かせ続け、しかし、そのイベントは起こらず焦り、まだこれからだ、と言い続ける人生。そのなかで、人間がどう変わってしまうのか。変わるはずのないと信じていた思いが、時間という大きな力の前でいかに無力であるか。
 生き方としての「解」は、まあだいたいわかっていて、「今を生きる」「今を楽しむ」というのが正解。人生に準備期間などなく、例え大きな目的と違っても、目の前のことに全力を尽くしながら、目の前のことを楽しみながら進み、必要であればビジョンを微修正しながら先へ進む。これしかない。
 しかし、そうわかっていてもなお、時間と怠惰に飲み込まれ、タタール人を待ってしまう。良い悪いではなく、人間とはそもそもそういうものなんだなーと思う。やっぱり、矛盾を心に持ち続けられるところが人のすごいところなので、葛藤とか嫉妬とかそういう感情って、人間らしい、大事なものと思う(適度な距離をもって注意して観るぶんには)。だから、タタール人を待ってしまうのも、自分の生き方としてはNGでも、たぶんきれいさっぱり消えてしまうものでは絶対ないので、うまくつきあっていくしかないのだな、と。