昭和史(半藤一利)

半藤一利さんの昭和史。評判通りオモシロイし、サクサク読めた。毎晩お風呂で読んでいたけど、仕事帰りでもすっと頭に入ってくる講義スタイルはありがたい。この2巻を読むと、満州事変のあたりから、ちょうど僕が生まれる前くらいまでの歴史がパッケージされていて、「歴史」がいまの社会にどう接続しているか、というのが大変良くわかる。読む動機というか視点というかは、2つあって、ひとつは純粋に昭和の歴史っていうのがよくわからないこと。もうひとつは、どういう社会が望ましいかを考えるうえで、避けて通れないと思っていること。

昭和史-1945 (平凡社ライブラリー)

昭和史-1945 (平凡社ライブラリー)

昭和史戦後篇 (平凡社ライブラリー)

昭和史戦後篇 (平凡社ライブラリー)

昭和の歴史がよくわからない

 いや、ほかの時代がよくわかっているという意味ではないんだけど、昭和って、理由やメカニズムがよくわからないんだよね。倒幕や明治維新、日清・日露戦争あたりまでは、「なんでそうなったのか?」がよくわかる(廃藩置県とか日英同盟とか、確かにそうするよね、と頷けます)んだけど、これが満洲事変あたりから「なんで?」っていうことばっかりで。「軍部の暴走だ」とか言われても、それって理由になってる?って思う。Q.プロジェクトがうまくいっていないのはなんで?→プロジェクトメンバーが暴走しているからです!→理由になっていない!、ですよね、ふつうに考えて。WHYが500回足りない、と怒られることでしょう。
 まあ、なんでわからないのかは、たぶん教えていた教師もよくわかっていないからではないのかとか失礼なことを考えていたのだけど、確かに、この時代の意思決定の仕方というのは、かなり複雑な相を為しているようで、この本のように「物語」形式で読まないことには、わかりにくいのかもしれない。

日本社会の意思決定の仕方

 どういう社会のあり方が望ましいのか、というのを常に考えているので、いまの社会がどういう経緯でできているのか、というのは当然知っておくべきことと思っている。この辺で考えていたことが近い↓
東インド会社とアジアの海
ローマというシステムの強さ
「壁と卵」の現代中国論
社会を作れなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門
 僕も転職した後から、官公庁の方と関わる機会も多くて、こんなふうに意思決定するんだーと日々新鮮に思う毎日なのだけど、やっぱり良いところ悪いところがあって、満州事変のあたりなどはもう絶対に悪いほうが出てしまっている例なわけだ。
 半藤さんは著作の最後で、歴史から学ぶべき教訓として、下の5点を挙げた。

・国民的熱狂を作ってはいけない、時の勢いに駆り立てられてはいけない
・抽象的な観念論を慎み、具体的で理性的な方法論を検討すべき
・日本型タコツボ社会における小集団主義の弊害から脱却せよ
・国際的な常識をわきまえよ
・時間的空間的な広い意味での大局観をもて、その場しのぎの近視眼的な対応をやめよ

あー、でも、このポイントそのものは大して重要じゃないというか。これらは至極まっとうなことなので、関東軍でも頷くだろう。でも、意思決定の際、どういう状況になると、これらが維持できなくなるか、というのを、実際のケースをもって、追っていけるのがこの本のすごいところ。みんなこんなことわかっている。わかっているんだけど、おかしな決断をしてしまうことはやっぱりあって、大切なのは、そのとき、どういう力学が働いているか、ということだ。

三発目の原子爆弾は日本に落ちる

 やっぱり、日本という国は平時には強いけど、緊急時には大変弱い国だな、と思う。江戸幕府が、参勤交代とか土木工事を大名にやらせて勢力を削ぐ(一方で地方は安定する)とかやってたとか感動するし、戦後に一致団結して復興してきたのはやっぱり凄いと思う。
 一方で、緊急時、黒船が来てから対策を考えて、尊皇攘夷か倒幕か、なんてやってるのはどう考えても遅いし、そういうとき、幕府周りがどんな対応していたかを考えると、ちょっとやる気あるのか?っていうレベルだと思う。これは昭和でも同じで、満州事変あたりから、どうやって意思決定をしていたかを見ると、もう大変残念なスタンスで、意思決定をするのを徹底的に避け、時の勢いを借りる、空気を読む、まあそういうことだと思う。そういう意思決定をしていると、どうしても戦争には弱い。相手が論理的に判断しているのに、こちらは空気?で判断してるわけで、それは、冷静に状況を分析できているほうが勝つのではないか。
 さらに言えば、日本の社会が、自ら組織を再構成することはほとんどない。常に後手に回ってしまう。黒船が来なければ、世界の状況についていける政府はつくれないし(一方で「つくることができるポテンシャルがある」ことはかなり評価すべき)、大戦に負けてGHQに改革してもらわなければ帝国主義後の世界に対応する政府はつくれないし、原発事故が起きなければ社会制度も改革できない。
 森有正のエッセイには、フランス人との会話のなかで絶句するシーンがある。女子学生はこう言う。「三発目の原子爆弾は日本に落ちる」と。彼が絶句したのは、彼女の言葉が思いもよらないものだったかったからではない。その反対に、まったく当然のことのように納得できてしまったからだった。森有正がそのとき気づいたのは、日本社会は自ら再構築する力が大変弱いということだ。外圧や大災害など、カタストロフィックなところまで行かなければ自らを変えられないということ。
 そして、残念ながら、予言は成立してしまった。フクシマの問題は明らかに人災であって、3.11以前、津波に対して問題がないなんてことは言えていなかった。確かに既往最大潮位レベルで対策はしていたものの、2008年には15m級の津波が発生するケースでの試算が出ていた。にも関わらず、霞ヶ関では原子力関連へアプローチすべきではないなどの働きかけがあったり、どうも「ファクト」よりも「政治」を重視する動きがあったらしい。これは、広島や長崎への原爆投下を「許してしまった」構造とまったく同じだ。つまり、自己言及が機能しない、ということだ。その代償を、一度焦土になる、ということで支払っているというのは、いつ考えても、納得のいかないことである。

森有正エッセー集成〈5〉 (ちくま学芸文庫)

森有正エッセー集成〈5〉 (ちくま学芸文庫)