中国奥地紀行

イザベラ・バードの中国旅行記日本奥地紀行を読んで以来、バードに大変惹かれてしまった。詳しくは上記エントリを読んでもらうとして、まとめるならば、既存の価値観(≒西洋的な価値観)に囚われないし、一方でオリエンタリズムにも囚われないフラットな視点をこの時代の、しかも女性が持っているところは驚愕モノ、というところ。日本奥地紀行を読んだ後に、中国奥地紀行が平凡社ライブラリー入りして、あーこれは読まなくてはなーと思い、気がつけば1年以上が経ってしまったのだけど、ついに読めた。正直、中国のほとんどは僕にとって未知の土地だから、日本の時ほどおもしろくないかも、と思っていたが、そんなことはまったくなかった。やっぱり、バードは只者ではない。

中国奥地紀行1 (平凡社ライブラリー)

中国奥地紀行1 (平凡社ライブラリー)

この田舎を見たいからだ

 スタートは上海。揚子江を遡上して、漢口(現在の武漢のあたり)、巫山を越えて、万県へと遡る。万県は現在でいうと、重慶の万州区のあたりなので、おそらく三峡ダムに沈んでるあたりと思う。そこから引き続き、保寧府、成都まで長江を遡る。そこから先も、もう少し、山地というかチベット高原のほうまで進むのだけど、もう、地名を見てもなにもわかんない・・・
 日本の旅より遥かに壮絶なのは、バードが道を行くと、どこでも「外国の悪魔だ!」とか「子どもを殺して食べる気だ!」みたいなことを言われるわけですよ。悪意と敵意を向けられ、石なんかも投げられることはしょっちゅうで、一度は頭に石を受けて気絶してしまう。ふつう、これ、旅をやめるよね。でも、やめない、というか、そういう選択肢がそもそもないみたい。どういうモチベーションなんだろう。キリスト教の布教や、ちょっとした興味などでできることではない。

村の長であるこの主人から「未開人(バーバリアン)」に殺されるかもしれないのになぜ旅などしているのかと尋ねられたので、この田舎を見たいからだと答えたものの、明らかに本気にはされなかった。ほかでもそうだったが、できることなら、本を書くためであり、本を書けば「高位」が与えられるのだと答えたかった。そう答えれば、彼らはよく納得したに違いない。

 「この田舎を見たいからだ」って、すごい動機だと思う。一応、巻末に「結論」みたいな章があって、中国が今後衰退していくのかどうか、とか、大英帝国としてどういう対中国戦略を取るべきなのか、とか、そういうことが色々書いてあるのだけど、これはもうぜんぶ蛇足というか、出資者に対するエクスキューズだと思っていて、バードがホントに思っていたのは「この田舎を見たいからだ」でしかないだろう。
 バードほど肝が座っているかは別として、僕も常に「良き観察者」でありたいと思っている。良き観察者は、風景から意味を抽出できる。ある風景が美しくない、という価値判断をすることは良いが、つまらない風景だと断じるのは間違いだ。つまらないのは、風景から情報を抽出できていないだけで、それは常に、観察者側の問題である。自身のなかにストックされてきた過去の風景との比較、自らが考え続けてきた文脈との照らし合わせ、あるいはそれに則った価値判断。そうしたものがあって初めて観察が面白くなる。

中国人の「ひたむきさ」について

 ・・・とまあ、読んでいくと、どうしても現実の中国との比較で読むよりも、どうしても冒険譚的な、つまりフィクションとして読んでしまう。日本奥地紀行では、「自分の知っている日本」との比較ができたが、残念ながらそれができるほど中国の内陸部のことを知らない。サンプルにできるとしたら、自身が会ったことのある中国の人たちだ。彼らと、バードの書く中国人とを比較してみることはできるかもしれない。

中国人は無学であるし、信じがたいほど迷信深い。だが、概していえば、いろいろな欠点はあるにしろ、ひたむきさという点では他の東洋民族にはないものがあるように思われる。

 とりあえず、無学であることは現代においては当てはまらないとして、常々感じるのは「ひたむきさ」という部分だ。「中国の方はひたむきだ」と言うと、必ずと言っていいほど「それは今の日本人が相対的に裕福だから、頑張らなくてもよくなったからだ」という指摘を受けるが、それはややニュアンスが異なる。ここで言う「ひたむきさ」を支えているのは、頑張ることに対して然るべきポジティブさを持っている、ということだ。
 多くの日本人は、頑張っていてもそれを表に出さないようにしたり、成果を出すことに後ろめたさを感じたりする。「頑張ってお金を得たけれど、これは本当に正しいことなのだろうか?」と自問したりするような(明らかに悪いことをしている場合でなくとも)。中国の方はほとんどこういう反芻はないように思えて、「お金を得るために努力するのは当然だし、得られたならそれは当然良いことだ」と思うようで、日本人の自省とかは、絶対に意味がわからないだろうし、わからないことは何も悪いことではないだろう。
 この考え方は裕福さに依らず、裕福になった日本人は「自分は社会に対する責任がある」と感じる人が多いように思うし、中国人は「自分はなるべくして裕福になった」と感じているように見える。ある意味、日本人も中国人も「ひたむき」ではあるけど、そのメンタルが異なるので、どういう時にひたむきでなくなるか、も異なる。日本人は「ひたむき」であることが社会的に求められているから「ひたむき」であろうとするけど、中国人は「ひたむき」であることが自身の利益と相反するなら「ひたむき」である必要はない、と考える。そういったところだろう。
 そういう意味での中国人的「ひたむき」さは、バードの見た時代も、今も変わらないのではないか。やっぱり、こういう民族(?)レベルの価値観傾向は、100年200年程度では変わらないんだなーと思う。

中国奥地紀行2 (平凡社ライブラリー)

中国奥地紀行2 (平凡社ライブラリー)