壁というものがある。[安部公房]

「壁」(安部公房)読了。
今日はハイパー文学タイムやります。

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)

 本書は「S・カルマ氏の犯罪」と5つの短編で構成される。登場人物は必ず、なにかを失ってしまう。それも理不尽に。「S・カルマ氏の犯罪」では、カルマ氏は名前を失う。「赤い繭」の主人公は、体の自由を失う。「洪水」では人類が滅ぶし、「魔法のチョーク」では肉体が失われる。「事業」では倫理が失われ、「バベルの塔の狸」では、影が食われてしまう。なにかに気づくときは、なにかを得たときよりも、なにかを失うときだ。
 壁の基本的な機能は「境界」。区切る。区別する。例えば、名前を失ったとき、自分とそれ以外の区別ができなくなるかもしれない。そんなことはない?じゃあ「どこまでが」自分なのだろうか?たぶん、名前なしでは説明できない。つまり、「名前」というのは「壁」を認識するための方法であって、もしそれを失ったら、自分とそうでないものの区別がつかなくなる。名前があるときは「壁」を認識できるが、名前を失えば「壁」は存在しないも同然。ゆえに、カルマ氏は目からすべてのものを飲み込んでしまう。
 カルマ氏は最終的に「壁」そのものになってしまう。壁を認識できなければ、人間として存在することすらかなわない。しかも、ただの壁ではなく、

見渡すかぎりの荒野です。
その中でぼくは静かに果しなく成長してゆく壁なのです。

成長してゆく壁だというのである。それは科学も哲学も宗教も到達することのできない荒野で、誰にも認識されることなく成長する。壁が成長しなければならないのは、それが人間のもともと持つ性質だから。人間は、境界を生み出すことで、生きている。あるいは、境界を生み出すことが「カルマ」であるとも言える。
 ……などと書いてみたけど、あまり無理はよくないね。まあ、ぶっちゃけ良く分からなかったよ。「砂の女」は結構すらすら読めたんだけどなあ。
関連:砂の女 - けれっぷ彗星