技術屋の心眼
「技術屋の心眼」(E.S.ファーガソン)読了。
いつも「どうやって」思考しているだろうか?
- 作者: E.S.ファーガソン,Eugene S. Ferguson,藤原良樹,砂田久吉
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2009/04/01
- メディア: 単行本
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思考は、「言葉による思考」とイコールではない。
技術に携わる人びとが構想している物体の特徴や特質の多くは、言葉では明確に表現することができない。それゆえ、心の中で、視覚的で非言語的なプロセスによって処理されることになる。
これはなにも、優れた技術者に限られた能力ではない。自分の描いた絵を言葉だけで説明出来るだろうか?すべての人間が、この「視覚的で非言語的なプロセス」を使っている。
視覚的な思考よりも、言葉による思考が優れている、というのも誤りである。思考プロセスに優劣はない。ただし、適不適はある。例えば、「ものづくり」には視覚的な思考プロセスが欠かせない。ファーガソンは、これを「心眼」と名付けた。
二人の設計者は「座ることも、話すこともけっしてしない」と彼女は言う。
「みんな、他の人へのスケッチを書いている」
いや、少しは話せば、と思うのだけど。高度に発達した心眼は口ベタと区別がつかない。
なぜ「環境」を「設計」することが難しいのだろう?
「設計」は技術者の心眼がもっとも発揮される仕事だ。
すなわち、技術者は、求められた設計がどんなものであれ、計画が実際に有効であるためには、計画されているシステムが予測可能で制御できるものでなければならないことを知っている。
今のところ、エコシステムは予測可能ではないし、カオス理論を考えれば、本質的に予測不可能であるとも言える。境界条件もファジィだ。既存の工学的な手法では、環境は設計できない。
だから、自然保護でよく言われているように、「順応的管理」というものがある。手を加えたらモニタリングを行い、その結果をフィードバックする。
実際は、人間はずっと「順応的管理」をとても長いスパンでやってきた。特に土木ではそうだったはずだ。対象は予測不可能性の高い「自然」であって、その蓄積が技術に反映されている。逆に言えば、自然保護という意味での環境設計ができないのは、それだけの蓄積がないからなのかもしれない。
数値解析の偏重
大学の砂防工学では、数値解析をあまりやらなかったので、隣の女の子が「砂防工学はぜんぜん工学じゃないからキライ」と言うので、僕としてはそういう発言をする女性には魅力を感じて、いや脱線しました、工学イコール数値解析みたいに捉えているのかーと思ったり。ファーガソンが問題だと指摘しているのは、こういう工学における数値解析の偏重。
技術者は、技術分野のほとんどすべての失敗が、誤った計算よりも誤った判断の結果であることを常に想い起こさねばならない。
当たり前といえば当たり前。でも、気を抜くと、数式の並んだ論文のほうが価値がありそうだと誤解してしまいがち。それこそ、テルツァーギに「精神病院」のラベルを貼られてしまう。