パレオマニア

「パレオマニア」(池澤夏樹)読了。
理想的な旅の教科書。

パレオマニア 大英博物館からの13の旅 (集英社文庫)

パレオマニア 大英博物館からの13の旅 (集英社文庫)

 大英博物館の収蔵品を選んで、その起源となる土地を訪ねる。以前、添乗員付き添いの受け身の旅なんかダメで、自ら学ぶ旅こそ至高である、というようなことを書いたが、この本ではそれを地で行っている。ギリシャ、エジプト、インド、イラン……と世界中を巡っていく。それらの旅を貫いているひとつのテーマが、残るもの/残らないもの、である。

大事なのはいいものが残ること。作者の名がなくてもそれ自身の力で生き残るようなものを作ること。

 大英博物館に残るようなものは数百、数千年の歴史が経っても生き延びてきたものだ。それに引き換え、今の人類は「いいもの」を作っているだろうか?とてもそうは思えない。文章ひとつとっても、今の電子媒体はメディアが変わってしまったら使えなくなってしまう。それに対して、古代の王が刻んだ石版の文字は、未だ読むことができる。現代の人間もそういうものを作っていかねばならない、と。
 うん、思想的にはわかるんだけど、現代の否定から入るのはノスタルジーでしかないんじゃないかな。確かに残るべき「いいもの」を作ることこそ素晴らしいとは思うけど、それは、過去と同じスタイルで「残る」ということではなくて。
 昔の人と同じくらいの勢いでモノを作っていいのだろうか?現代まで残っている「いいもの」を作ったのは間違いなく日々に余裕がある層であることは間違いない。その当時とは比べられないほど豊かな現代人が「いいもの」を作ろうとしたら、多くの石材は切り出され、山林は荒れ果ててしまうはず。そういうことが人類として許容されるとはとても思えない。
 だいたい、過去であれ、作られたものの多くが残ったわけではないはずだ。たまたま残ったものが、僕らの目に触れるだけだ、といういわゆる生存者バイアスである。現代でも「それ自身の力で生き残るようなもの」はつくられている。物質的な強度のみが問われた、これまでの時代とは、「残る」ということの意味が違うはずだ。「マインクラフト」の製作者ノッチことマーカス・ペルッソン氏はTwitterで相談を持ちかけられ、こう答えたという。

相談者:「ノッチさん、僕はこのゲームがすごくやりたいのですが、買うお金がありません。海賊版を使う前に、もしかしたら無料アカウントがもらえないか聞いてみようと思って」
ノッチ:「海賊版を使えばいいよ。そのうちお金が払えるようになったときに、このゲームがまだ好きなら、その時買えばいい。それから、ちゃんと悪いことをしてるって思うのを忘れないように ;)」

 現代において、後世まで残るものというのは、物質的なものでなくともよいはず。もちろんローカル性は失われてしまうが、少なくとも今はローカルな遺産を生みだすのに相応しい時代ではないように思う。もちろん、そうであればこそ、過去のローカルな遺産が眩しく見えるのだろうけど。