「死刑弁護人」見てきた

夏休みになったので「死刑弁護人」を見てきた。小学生の夏休みに「少年H」を読む的な。

 「オウム真理教事件」の麻原彰晃や、「和歌山毒カレー事件」の林眞須美、「光市母子殺害事件」の元少年とか、どう考えても誰もやりたがらない被告の弁護人を行う人物。安田好弘。「悪魔の弁護人」と呼ばれても、カッターの刃を送りつけられても、果ては検察に罪をでっち上げられて逮捕されても、それでも「死刑弁護人」をやり続けられる。そういう存在が、どんな信念に基づいていて、どんな人間としてあり得るんだろうか?というのが、どうしても知りたくて。
 彼は死刑廃止論者ということなんだけど、記憶に残っているのは「家族を殺されても、犯人を死刑にせずに、死刑廃止を唱えられるか」というような質問に答えていたところ。
 まず「うーん」と少し考えるところに、ある種の凄さを感じた。即答しないんだ、と。弁護士という職種だから、揚げ足を取られないようにしている、というような職業病もあるとは思うけど、これは要するに、即答できるような簡単な問題ではないよ、というようなメタ・メッセージ。死刑弁護人と言われ、死刑廃止を強く主張する人物であるにも関わらず、即答はできない。
 偏見ではあるんだけれども、この手の人って結論ありきで、「そりゃあそうでしょう」みたいな、絶対に服せない公理として認識している人が多くて、根拠とか、経緯とか、そういうものをすっ飛ばして、思考停止に陥っている人が多い印象なんだけども、この人はそうじゃないんだ、という安心が生まれた。ちゃんと自分のロジックと経験と思想に基いて、「死刑廃止」と言っているのだと。
 そして、仮に家族を殺されても、犯人を死刑にはしないだろうし、死刑廃止を唱え続けるだろう、そういうふうに考えられるところまできた。と言う。つまりこれは、ふつうは、ふつうの人間はそこまで考え抜くことはできない、ということを暗に言っているわけで、そういう現状に対する認識はかなりシビアなんだなと思う。
 で、それでも死刑を廃止すべき、とする根源は「人間は変わることができる、というのを信じているから」ということ。これが、ほんとうにすごい。例えば僕も、理想的には(=実行するかとは別に)死刑は廃止するべきだと思っていて、その根底にあるのは、人間の可能性を信じているから、更生可能な存在であると信じているから、ではあるけども、僕がそう言えるのは、死刑囚やそれに近い立ち位置にいる人に触れていないからかもしれない。死刑囚と触れて、多くの人の命を守れたり守れなかったりして、それでも「人間は変わることができる、というのを信じているから」と言えるのは、そもそも言葉の重さが違う。

最高裁の弁護人は死刑執行まで背負う。
遺体を引き取り、葬式を出す。
付き合っている人やで、
"ほな、さいなら"とは、いかんやないか

ということだろう。もちろん、そのやり方が正しいのかどうかはわからないし、wikipediaを見る限り、流石に無理のある弁護なんじゃないか、というところもあったけど、でも、あのレベルの犯罪者・冤罪の人も含め、誰も寄り添ってあげられる人っていないわけで、仮に凶悪な犯罪を犯しているからといって、例えば多くのマスコミのように、例えば野次馬のように、一方的なバッシングをし続けるしかない、悪意を浴びせ続けるしかない、というのは、人が人に対する姿勢としても、社会の構造としても、少なくとも理想的なものじゃないよなーと思う。

映画の存在を知ったのは、日刊サイゾーの記事。東海テレビの制作で、関東では未放映だったそうで。映像制作、提供という視点からもいろいろおもしろい展開かも。
http://www.cyzo.com/2012/06/post_10866.html