世界美術への道

ついに辿り着いた。「岡本太郎の宇宙」最終巻。岡本太郎文化人類学的な観点から世界に向き合っていたときの文章を中心に、対決の奇跡が綴られる。メキシコ人よりもメキシコ人らしいふるまい。現代の人間も通過儀礼(イニシエーション)を求めているのではないか。日本人は爆発しなければならない。どのエピソードも強烈だけど、やはりイヌクシュクのエピソードが好きだ。

 イヌクシュクとは、北極圏カナダで見られる、石の積み上げ。僕は真っ先に恐山に行ったときのことを思い出した。死んだ子どもが、生前に為し得なかった善行を積むため、賽の河原で石を積むのだ。石を積むということは、虚しい行為とも言われる。石と石は接着されておらず、いつ崩れてもおかしくないものだ。そこにあるのは、モノとしての永続性ではなく、石が積み重ねられた、という状態でしかない。そういう意味で、永続性を指向するピラミッドとは根本的に異質なものということ。
 岡本太郎は「石は無口だ」と言った。もし口を開いたとしても、「アッケラカンと、俺は石だ、としか言わない」と言った。僕はいつも説明的な理解をしてしまう人間なので、僕の理解では、これは次のようなことになる。石というのは、自然物のなかで、もっとも人間に寄り添わないものだ。もちろん、石器になったり、カマドになったりはするものの、石は形を「変えたがらない」。木は湿気を吸って膨張したりするし、燃えもする。砂は練れば形を変える。しかし、石はせいぜい割るか、削るか、人間が大きな力を加えなければ、形を変えない。そういう意味で、人間に寄り添わない。
 それはつまり、人が影響を与えにくいもの、意味を持ちにくいもの、ということだ。石には意味が付与されない。だから、単に積み上げられた石の、そのひとつひとつに意味はなく、逆に「積み上げられた」という行為のみが強調される。イヌクシュクは「道標」や「歓迎」などの意味を持つというけれど、その原義は「人間的力で行為するもの」だと言う。これにはとても納得する。積み上げられた石はは、もはや石の集合ではない。「積み上げる」という行為がモノになった存在なのである。
 石を積み上げるという行為は「虚しいもの」だ、と捉えられることが多いけれど、僕はまったく逆だと思う。石を積み上げることを虚しいと思う人間は、決して石を積み上げないだろう。石を積み上げることもなく、野垂れ死んでいくだけだ。風や雨のような外力に壊されることに対抗して、積み上げていく営為そのものが、「生きる」ということであって、虚しさを感じながらも、積み上げなければならない、積み上げてみよう、と思うことこそが、唯一の生きる衝動、モチベーションなのだと信じる。
 岡本太郎は、エスキモーがイヌクシュクを積み上げるような、厳しい環境で外界に立ち向かっていく人間に、強い共感を覚えたのだろう。それはまさに、岡本太郎が人間社会と激しく対決していたのと同じ構図だからだ。数千年前、人間にとって自然は対決すべき存在だったけれど、現代の都市で生活する人間にとって、もう自然は対決すべき存在ではなくなってしまった。対決すべき存在を失ってしまった人間は「生きる」ことのモチベーションを感じづらい。
 岡本太郎は、対決すべき対象を見つけなければいけない、という問題提起をしたが、それをどこに求めるべきか、には答えていない。対決すべき対象が向こうから勝手にやって来た過去とは違い、現代は対決すべき対象は向こうからはやってこない。むしろ、どんどん遠ざかってゆく。そうすると、対決すべき対象が自分自身という、すごくレベルの高いことを、皆が求められてしまう。こういうのを「生きづらい世の中」というのかもしれないけれど、どうなんだろう、祖先の方々が発明した「祭り」や「イニシエーション」が、再びかたちを変えて成立するのであれば、僕はそのあり方を見てみたい、と思う。