復活&読書メモ

生存確認ポエム的なにか

 復活しました。この2ヶ月は地獄だった。まったくもって相性の悪い上司と2人でプロジェクトというのは堪えるものがある。やっぱり、体育会系の方とは合わないんだなーと実感。
 毎日絶望して帰ってきて、「夜と霧」を抱いて震えて眠っていた(眠れるときは)。毎日夜が明けるのが怖かったけれど、それでも「死にたい」とか思わず、日が昇れば自分を奮い立たせて玄関の外に出られるのは、自分でもとても不思議なことだと思う。
 一体、何が自分を支えているのか、わからない。圧倒的な自己肯定感に支えられた人間ではないはずなのだ。幼少期の親の育て方による自己肯定感なのだろうか?でも、昔は「いつ死んでもいいや」と思っていた時期もあった。守るべき人ができたからだろうか?でも、誰かのために頑張っているわけではないのだ。
 「大丈夫な人たち」は不思議に思わないのだろうか?何が自分を支えているのか、を。僕の場合、きっと「自分を支えているもの」はどうにかして獲得したものであって、気づいたら持っていたもの、ではなかった。
 「自分を支えているもの」は「生きていてよかった」と思う体験だと思う。別に、大したことでなくていい。多摩丘陵にへばりついている家々を夕日のなかで眺めていたとき、琵琶湖に注ぐ濁った小川をみんなで遡ったとき、鹿島灘の寂しい風車に向かって2人でとぼとぼ歩いて行ったとき、雨のなか泣いて帰ってきたらおばあちゃんが温めてくれたどら焼きが美味しかったとき。
 なんか、説明してもまったく伝わる気がしないくらいの瑣末な経験の積み重ねが自分を支えている。なんで、そんなのが?っていうレベルの。誰かと一緒のときの記憶もそうだし、一人だけで感じたことも含めて。
 再現性はない。もし、もう一度生まれ変わったら、同じ経験を積む保証はないし、「自分を支えているもの」を確実に手に入れられるとはとても思えない。幸運であった、そう思うしかない。

本もぜんぜん読めていないし、書く気力も充分と言えないけれど

小説のように (新潮クレスト・ブックス)

小説のように (新潮クレスト・ブックス)

 去年のノーベル賞受賞作家アリス・マンローの本は読んでた。年始だったかな?なんというか、僕はまだこの本を読むには若すぎる、と感じた。10の短篇のなかで、一番心が動いた作品が「顔」なんだけど、これは幼い恋の物語なんだよね。でも、この短編集を読むと、特に女性にはたくさんのステージや立ち位置があって、「顔」に出てくる女の子はその最も初めの1ステージの1タイプに過ぎない、と気づかされる。
 描かれているのは人生の一場面だけれど、その一場面には、それまでのこんがらがった人生がどうにかして縫い付けられている。だから、人生の一場面をほんとうの意味で描き出すには、人生全体を見せてあげないといけない。そんな意思を感じた。
宮本常一 ---旅する民俗学者 (KAWADE道の手帖)

宮本常一 ---旅する民俗学者 (KAWADE道の手帖)

 日本民俗学のラスボス柳田國男の周辺。宮本常一がすごいのは、統一や汎化への欲望を適切に退けているところと思う。柳田國男にとって、遠野物語は、全国にある物語の一例に過ぎなかったけど、宮本常一にとって、見てきたもの、記録しているものは「一例」ではなくて、そこにしかないもの、と捉えているようだ。まさに、常に一。常に、個は個のまま。博物学が生物学を指向するように、一般的にはこうだ、という法則化が進むと思うのだけど、宮本常一はそこにフォーカスせず、ただ、ここはこういうものだ、と把握していく。固有性というのはそういうことで、いわゆる「まちおこし」「地域活性化」に必要なのはこちらの視点なのだろうけど、そういうことを意識している人は少ないのでは。
ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)

ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)

 ローマ人の物語もちびちびと読み進める。とりあえず「ルビコン以前」読了。カエサルの「公私混同」哲学は流石と言わざるをえない。自らの欲望と公共としてあるべきことが合致しているというのは、何を為すにしても強い。一致させるポジションへ自分を運んであげることも大切に思う。

そんな感じで、ブログもぼちぼち再開していきたいです(未定)。