洪水と治水の河川史

「洪水と治水の河川史」(大熊孝)読了。
思想なしでは、技術はうまく機能しない。

増補 洪水と治水の河川史―水害の制圧から受容へ (平凡社ライブラリー)

増補 洪水と治水の河川史―水害の制圧から受容へ (平凡社ライブラリー)

目次


第1章 近代治水の勝利と破綻
 水防と治水
 近代治水の功罪


第2章 川の個性と水害
 地質と河川の特徴
 沖積平野を流れる河川の三形態
 川を変える自然の猛威
 川の流れと降雨
 人の営みと水害の変化


第3章 自然の制約と技術の限界下で―近世の川と水害
 北上川の大改修と舟運体系
 桂離宮にみる水害への対応
 『百姓伝記』にみる水防・治水思想
 利根川の舟運・治水体系と浅間山の噴火
 信濃川阿賀野川の分離と近世技術の限界


第4章 近代技術の登場と水害への対応の変化
 信濃川大河津分水
 終わりなき利根川治水
 ダムによる洪水の調節
 治水計画と排水ポンプ
 弱体化した水防


第5章 自然と共存する水害への対応
 総合治水対策
 超過洪水対策
 水害対応策のあるべき姿


 「水害にあってもいいじゃないか」と言える河川工学者はすごい。それは、「水害を絶滅することを至上目的」と考えている業界にいながら、その思想に洗脳されなかったということからだ。水害のリスクを下げることは重要だが、それによって他の重要なものが失われているのでは?と疑問を投げかけることは、タブーであったのだろう。
 業界ごとに支配的な考え方がある。もとは根拠のあった考え方であったが、やがて「越えてはならない一線」となり、「内部」では否定することが許されないものとなる。そういった思想が、僕には、山のように見える。しかし一方で、本書の著者のように、それらの「常識」に屈しなかった先人がいる、ということは希望を与えてくれる。あ、わずかに脱線してしまった。
 田中康夫脱ダム宣言を出した時、筆者はダムを用いない治水のあり方を提唱していた。もちろん、ダムを絶対に造るべきでない、ということではない。ただ、これまでの治水や利水において、ダムが優先的に採用されすぎていた、ということだろう。確かに、ダムは当面の治水や利水に大きな効果がある。しかし一方で、ダムが河川環境に与えるインパクトは極めて大きい。スーパー堤防を整備するには400年かかること、ダムによる河川環境への影響などを指摘しながら、著者が導き出した結論はこうだ。

本書で提案した治水のあり方、すなわち、水害防備林やその他の堤防強化によって「大洪水が来て堤防を越流しても、破堤しない堤防によって水害を最小化する」という考え方は、一九年たっても変わっておらず、今でもそれが究極の治水であると考えている。

 これが最適解なのかは分からない。というかケースバイケースなのだろうけど、この本を読んで考えたことは、技術的な方策のみでは問題は解決しない、ということ。技術にも自治があり、歴史があり、思想がある。「技術的にはこれが優れているから、これを適用すれば解決」、ということは、残念ながらあり得ない。思想が解決されるべき問題を見つけ出し、「常識」と対立し、「解決」に向かってシフトしていく。そういうものなのかもしれない。