もっともっと悪条件の中で闘ってみることだね。[岡本太郎]
「岡本太郎 「太陽の塔」と最後の闘い」(平野暁臣)読了。
岡本太郎を「知らない」世代として。
- 作者: 平野暁臣
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2009/08/18
- メディア: 新書
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目次
はじめに
第1章 突き立てられた太陽の塔
第2章 反博の巨像
第3章 「岡本太郎」の誕生
第4章 日本人を呼びさます
終章 そして太陽の塔だけが遺った
おわりに
引用元一覧
岡本太郎にもっと触れたい人へ
最近、岡本太郎に興味がある。僕がはじめて岡本太郎を「知った」のは自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)という本だった。もちろん彼がなにかすごい芸術家であり、太陽の塔の作者であることは以前から知っていた。しかし、大阪万博を経験した世代と違い、どのような人間であるか、どういった思想を持った人物であるかは知らなかった。
初めて「自分の中に毒を持て」を読んだときには、けっこう反発を覚えた。なんと言うか、言葉に対する感覚が違う。例えば、「自分自身がワァーッともり上がってくるにちがいない」「モリモリ生きていける」みたいな。こういった表現に嫌悪感を覚えたのだ。しかし、それでも、たびたび読み返してしまった。なぜ?たぶん、岡本太郎のあり方を、僕が必要としていたからだろう。
人生、即、絶対的な闘いなのだ。
それは絶え間のない、
永遠の冒険だと言ってもいい。
岡本太郎の言葉を繰り返し、自身の嫌悪感にも関わらず、衝動のように繰り返し噛みしめるうち、分かってきた。僕が岡本太郎の言葉に抱く嫌悪感は、自身が岡本太郎のように生きたいにも関わらず、そうできていない自分に対する嫌悪感であることに。
このような感じで岡本太郎に興味があり、本書を手に取るに至った。メッセージという点では岡本太郎自身の著作には劣るが、彼がどういう背景でそれらの言葉を発したのか、太陽の塔とはなんだったのか、といった点の理解は深まった。ただ、1つだけ腑に落ちないのは、なぜ彼は晩年、「バカを装う」ことにしたのか、ということだ。本書では、
誤解されるべきだ。それは猛烈な仮面といってもいい。自分でない、自分以上のものをつき出す。それが仮面の役割だ。それは強烈に存在を引き裂く。それによって、より高い次元に存在を輝かすのだ。
と岡本太郎の言葉を引用して納得していたが、いまいち僕は納得できない*1。納得できないということは、きっと、まだ岡本太郎から得るものはあるということだろう。他の本も読んでみよう。あと、作品にも触れてみようか*2。
*1:……もしかしたら、ブログを書き続けたら、あるいは。
*2:川崎市に美術館があるらしい→川崎市岡本太郎美術館