闇の考古学
「闇の考古学―画家エトガー・エンデを語る」(ミヒャエル・エンデ,イェルク・クリッヒバウム)読了。
芸術への接し方、消費者的になっていませんか?
- 作者: ミヒャエル・エンデ,イェルク・クリッヒバウム,Michael Ende,丘沢静也
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1988/09/14
- メディア: 単行本
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さて、画家エトガー・エンデは、「モモ」や「果てしない物語」で有名なミヒャエル・エンデの父にあたる。当時はもちろん、現在に至っても日の目を見ないエドガーの絵と思想に焦点を当て、それらを考古学のように掘り起こしていこう、というのがコンセプトなのだと思う。たぶん。
絵は見る人のなかで、物語は読む人のなかではじめて完成する。それが、父にとっても私にとってもつねに目標でしたから。(中略)だいたい今日の読者の態度は消費者的なのです。
僕も一時期、創作もどき*1をやったことがあるけど、「自分の外側で完成する」というのは極めて難しい目標だと思う。それは、曖昧にとれる部分をつくるとか、そういうことじゃなくて、自分が一度もコミュニケーションをとったことのない相手に語りかけ、レスポンスを期待する行為に近い。よく考えると、僕が一番苦手なことじゃないか。
受け手としては、それなりにレベルアップしてきていると思う。ブログを始めたのも大きな契機となった。エントリの半分が読書日記で終わっているこのブログも、読みっぱなしよりは得るものが大きい。たまに、自分の考えをまとめきれず、エントリを書きあげられなかった、あるいは中途半端なエントリとなったものがあるが、そういう本は「読み切れなかった本」として捉えている。エンデの言葉で言えば、完成していない物語と言えるかもしれない。
そういうまどろっこしい考え方をせずに、伝えたいことを丁寧に説明すればいいじゃないか、という人がいるかもしれないが、これに対し、エンデは手厳しい。
説明というのは私にとってはつねに非芸術的なことなのです。芸術は自分で説明してはならない。文学もです。文学は自分で自分を説明してはならない。
もとより、説明によってすべてを伝えることができるのなら、「文学」や「芸術」というかたちをとっている意味がない。歌において、歌詞にしか伝えたいことがのっていないのだとしたら、歌ではなく、詩にすればいいはずだ。「説明」という方法には限界があると分かれば、芸術への接し方は消費者的ではいられなくなる。