ご冗談でしょう、ファインマンさん

「ご冗談でしょう、ファインマンさん」(R.P.ファインマン)読了。
冗談みたいな、生き方だ。

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉 (岩波現代文庫)

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉 (岩波現代文庫)

 僕らが科学を大好きなのは、ただ、楽しいからだ。そう主張する人は多いが、それを一点の曇りもなく伝えることができる人は、驚くほど少ない。「楽しいから」と言うことはできる。でも、そこには「そうであってほしい」という希望や期待が「こめられてしまう」。
 科学と技術がご成婚なされたのち、期せずして責任という子供をもうけることになってしまった。「子はかすがい」なのかどうかはよく分からないが、この親子の縁が切れることはないだろうし、切ってはならないものだ。
 ファインマンは若くして、原爆をつくるためのマンハッタン計画に加わることになる。この経緯は本書の「下から見たロスアラモス」で詳しく述べられているが、原爆開発に携わったことの苦悩は大きく扱われていない。しかしこれは、決してファインマンが自らの責任を感じていなかったことにはならない。仰々しく責任について語ることは、本書のテーマにそぐわなかっただけであろう。
 科学を愛する人々の多くが、科学が純粋であってほしいと思っている。しかし、純粋であるということは、決して楽なことではない。ファインマンは純粋に科学を愛していた。それは責任を感じていない、ということではなく、その責任を負ってさえ、純粋に科学を愛し続けることが可能だということだ。なんと強いあり方だろうか。科学と責任を同時に持たなければならない現代人が「科学好き」であり続けるための、ひとつのロールモデルファインマンが示してくれたのだ。
 もっと言えば、ファインマンのそのような真摯なスタンスは、科学に対してだけではない。日本に訪れたときのエピソードからは、日本の文化を全力で楽しんでやろうという気概が伺えるし、ボンゴドラムをたたくときだってネイティヴ・アメリカンと誤認されるほどに打ち込む。
 生き方に、妥協がないのだ。それこそ「ご冗談でしょう」と言われるほどに。ファインマンを物理学者として尊敬する人も多いが、僕はファインマンを、優れた生き方をしたひとりの人間として、尊敬したい。