花神

花神」(司馬遼太郎)読了。
変革期における技術者の役割とは?

花神(上) (新潮文庫)

花神(上) (新潮文庫)

「理想の翻訳」が、戦争のあり方ばかりか、やがては国や社会のあり方までも変えていく/司馬遼太郎『花神』
こちらで紹介されていたので、読んでみた。時代小説で技術を扱うっていうのは、ちょっと珍しい。
 あらすじを書いてみよう。本作の主人公である村田蔵六(のちの大村益次郎)は、長州藩の百姓の家に生まれる。百姓と言っても、蔵六の家は町医者のような存在であったので、蔵六は緒方洪庵塾で医学(とそれを学ぶためのオランダ語)を学ぶ。その知識と技術は紙の上で学んだに過ぎないが、その力が彼を新政府軍の総司令官にする……というような話である。
 司馬遼太郎が言うには、変革期には3種類の人間が現れるという。思想家、戦略家、そして技術者である。
 まず「思想家が非業の死をとげる」という。思想家は変革の原動力となり得る「思想」を持っている。これは、実際に、個別に適用する際には「間違っている」ことも多いだろう。しかし、「変革」というのはそもそも、全体的な方向性の転換であるから、細部が的確かということよりも、周りを動かす力としての思想がまず必要になるのだろう。動かす、ということは「摩擦が生じる」ということであり、当然双方がダメージを受ける。思想家側は例えば、「非業の死をとげる」ことになる。
 次に、「戦略家も天寿をまっとうしない」という。蔵六が指摘したように、戦略(strategy)と戦術(tactics)はまったく異なる。strategyの正確な訳は「方策」だと聞いたことがある。思想を具体的なレベルに落とし込み、方向を指し示すのが戦略家だろう。
 最後に登場するのが技術者である。主人公の蔵六は、この技術者にあたる。技術者の役割は、戦略家のつくった「戦略」を全うするため、技術を適用すること。こういう意味で、「技術」は「思想」を色濃く反映している。
 変革期において、「技術」が最後のフェイズに位置する理由もここにある。もし、技術が思想と切り離されたものだったら、おそらくこういうことは起こらない。社会が進む方向と関係なく、「技術」が厳然と存在するのであれば、変革期に際しても、「技術」はそのかたちを保ったまま、時代を経るだけだ。
 ところで、この思想→戦略→技術というのが、完全に一方通行のものであるかというと、どうもそうではないようだ。
 蔵六は軍事技術の視点から、「武士」というシステムを解体し、社会秩序を再構築することとなる。つまり、「平民が戦争に参加する」という技術的必然性が、武士の持つ特権性を失わせたということである。ここには、明らかに技術→思想の流れが存在する。
 変革を成し遂げることのできる技術者、つまり「花神」は、思想→戦略→技術、の流れを逆流させる、というかフィードバックできるような視点を持っているのである。