Jonathan Livingston Seagull
"Jonathan Livingston Seagull"(Richard Bach)読了。
好きな物語なので、原書で読んでみた。
- 作者: Richard Bach
- 出版社/メーカー: Element Books
- 発売日: 2003/08/04
- メディア: ペーパーバック
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じゃあなんでそんなことをしているかというと、かもめのジョナサン (新潮文庫 ハ 9-1)の解説がとてもひっかかっているからである。
この物語が体質的に持っている一種独特の雰囲気がどうも肌に合わないのだ。ここにはうまく言えないけれども、高い場所から人々に何かを呼びかけるような響きがある。
これは、翻訳者の五木寛之が書いた解説である。一言でいうと、選民思想が鼻につく、ということ。気になるなら原書で読め、みたいに書いてあったので、いつか読んでみようと決めていた次第である。
正直なことを言うと、原書を読んでも、ほとんど印象は変わらなかった。プロの翻訳家というのはすごいものだ。自分が体質的に気に入らない物語も、ちゃんと「正しく」訳せてしまうのだから。まあ、ジョナサンの口調が「……かね?」とかになってるのは気になったけど。
せっかくなので、五木寛之が書いた解説にもう少し近づいてみる。
それは異端と反逆を讃えているようで実はきわめて伝統的、良識的であり、冒険と自由を求めているようでいて逆に道徳と権威を重んずる感覚である。
その感覚はよくわかる。やっぱりジョナサン集団は「群れ」と断絶していたし、上から下への継承みたいのがあるのは気になる。
しかしなぜ、「道徳」や「権威」は生まれるのか?例えば「権威」に否定的な価値観というのは、「権威」のようなものがつくられた初期の自発的な尊敬や謙虚さのようなものが失われ、形骸化したあとに生まれるものだ。
つまり、ある人への尊敬が生まれるとき、その人に対する姿勢は自然に謙虚になる。しかし、外側の人間が、尊敬している人の集合やインパクトのある結果だけを見て、「あの人はスゴいんだ」と考えるときに、かたちだけの「権威」が生まれるのだろう。
本書では、ジョナサンは"Son of the Great Gull Himself"(偉大なカモメの御子)と呼ばれることにうんざりしていた。
たぶん、構造的にこういうことは避けられない。五木寛之は本書を「群れを低く見る物語」としていたが、別に低く見ているとは思わない。「群れ」というのが、本来的ににそのような構造をしている。「出る杭は打たれる」的な同調圧力は群れがそもそも持っている共感や協力といったものの負の側面で、切り離せないと思う。
選民思想が鼻につくのは、そういう「群れを低く見る」ような思想を自分の内に持っているからに他ならない。とは言え、そういう考えは自然に湧いてきてしまうものだし、どうしようもない。それをどうにかしようってことで、「愛」といういまだよく分からない装置を持ち出すことになる。それを良識的と言われても。否定すべきは形骸化した良識だろう。
まあ、本書が宗教書として用いられるのもよく分かる。宗教というのがもともとこういう過程でつくられたものなのだろうから。たぶん、それが形骸化していくたびに、Part1のジョナサンみたいな存在が現れるんだろうな、と思う。
まとまりのない文章になってしまった。それにしても、これだけ考えることがあれば、一生読むに耐える物語だ。五木寛之の解説も含めて。
……あれ、洋書を読んだ感想は?もしかしたら、「じゃあ洋書で読んでやる」と思ったときには、読み終わっていたのかもしれないな。