「対立」の影響力

 風力発電の事業に関わっている方とお会いした。最近は、風力発電は追い風だと思っていたが、そうでもないようだ。特に、いわゆる低周波問題というやつはやっかいな問題らしい。

グローバルな環境問題と、ローカルな環境問題との衝突

 これは、グローバルな環境問題と、ローカルな環境問題との衝突が始まった、というふうにも捉えられる。「環境に良い」の神話性が理論面だけなく、実際的な面で崩れてきたと思う。
 どういうことか?風力発電の話で考える。グローバルな視点からは、「環境に良い」(≒二酸化炭素排出量が少ない)のは火力発電から風力発電へのシフトだ(と一般的に言われている)。
 一方で、ローカルな視点で見ると、風力発電施設は人体に有害な低周波を発生するかもしれないし、大規模な建設事業であることを考えれば、その地域の生態系へのダメージは避けられない。
 両者はトレードオフである。こういった指摘でパニックになってしまう環境活動家をたくさん見てきた。彼らは、環境問題を「環境に良い/悪い」という二値化によって判断してきたからだ。
 以前、「環境危機をあおってはいけない」を読んでもらった人に、「環境問題肯定派と否定派のどっちを信じればいいのか分からなくなりました」みたいなことを言われて、どこにそんな派閥が存在するのかな?(反語)と思ったのを思い出す。
 「環境に良い」は複数のベクトルを持っている。ので、「環境に良い」どうしが対立することもある。

「対立」という舞台装置

 ただ、最近思っているのは、こうした「対立」の構図が大きな影響力を持っているということだ。気候変動が大きな注目を浴びたのに、生物多様性がこれっぽちも注目されない理由はこの辺にあるんじゃないかと思う。
 気候変動のとき(COP15前後)は、例えば日本だと、武田邦彦みたいな懐疑派と、江守正多みたいな非懐疑派が対立するかたちになって、注目を浴びた。
 一方の生物多様性COP10前、つまり現在)は、まあ生物多様性は大切、くらいまでしか話が進まない*1。大切じゃない!とか叫ぶ人はいない。
 これが「ブラックバスがメダカを食う」が出た頃は、外来種問題がブームになったことと記憶している。そのときは、環境保護論者とバス釣り人・釣り業界との対立があった*2生物多様性の概念も広まったと思う。
 こういうふうに考えると、問題意識を持ってもらうのに一番手っ取り早い方法は、「対立」という舞台装置をつくることだ、などと考えてしまう。
 もちろん、そういった「対立」の図式は二値化的な判断をする人を増やしてしまうし、そもそも、「対立」を煽動することが正しいかといえば、たぶん違うだろう*3。では、どうすればいいだろうか?ここら辺が考えどころである。

 

*1:せめて、生物多様性の価値を経済に組み込んでいくのが今回の目的、くらいまでは進めてほしい

*2:非常にざっくり書いております。ご了承ください。

*3:「目的のためには手段を選ばない」キャラクターには憧れがあるのですが。