日本語は亡びない

「日本語は亡びない」(金谷武洋)読了。
「地上の視点」と「空の視点」。

日本語は亡びない (ちくま新書)

日本語は亡びない (ちくま新書)

目次
第1部 日本語は亡びない
 水村美苗日本語が亡びるとき』を読む
 日本語は乱れているか
 日本語を守る「堀川」―五つの免疫効果とは
 「死にかけた」のは英語の方―歴史的検証)
第2部 日本語を発信する
 偽装する日本語
 日本語文法と世界平和―日本語の世界観)
第3部 二人のみゆき―日本的視点の表現者
 宮部みゆきの下町
 中島みゆきの地上
 ハーンの憂い、クローデルの祈り

 「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」が出版されてから1年半。「日本語が亡びるとき」は、僕がこのブログを立ち上げる前に読んだものなので、当時の記録はないが、本当に衝撃的な日本語論だったことが思い起こされる。
 水村の主張は確か、「文学として表現されるような日本語が亡びる」というものだったかと思う。いわゆる「エリート」が英語にシフトすることで、文学も英語にシフトしていく、というような。
 本書はそれを冒頭から否定する。カナダの図書館には、仏訳された現代の日本文学のリストを並べながら。そこには、桐野夏生の「Out」やら、宮部みゆきの「火車」やら、村上春樹の「ねじ巻き鳥クロニクル」やら、ああ、というような現代の日本文学が並んでいる。
 もちろん、こういうリストが、反論の確かな証拠になっているとは言い難いが、それでも、この著者のような反論のスタイルをほとんど目にしてこなかったというのは、なんとなく怖い。
 「この著者のような反論のスタイル」とは、著者自身が強く主張する「地上の視点」である。水村が「エリート」や「文学者」のようなフレーズを使って、「空の視点」から日本語の行末に警鐘を鳴らしたのに対し、金谷はもっと庶民的な、プロジェクトX的な「地上の視点」から、それに反論した。
 正直なことを言うと、金谷の主張が「論」として正しいものかどうかはよく分からなかった。感情論に振れすぎている気もするし(それは「日本語が亡びるとき」も同じだけど)、「英語だってフランスに亡ぼされるところだった」という事実だって「だから日本語も亡びない」とは言えないだろう。
 しかしそれでも、金谷の用いた「主語の功罪」と「地上の視点」という論点は避けて通れない。

主語の功罪

 日本語にはそもそも、主語が存在しないのだという。同著者の日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)に詳しく書かれているのだと思うが、日本語には「主題」と「主格」こそあるが、「主語」は不要なのだという。
 一方、英文は「主語」抜きでは存在し得ない。そして、この言語の構成が、世界の捉え方や社会のあり方にも影響しているという。主語の持つ言語が、アメリカの「正義病」の起源とも主張する。ややトンデモ的だが、わからなくはない。自分で思っているよりも、思考は言葉に支配されている。

地上と空

 中島みゆきの「地上の星」に象徴される「地上の視点」。見下ろすような、見下すような「空の視点」と対比されるその視点への嫌悪感は、前もどこかで、と思い、ああ、かもめのジョナサンの解説か、五木寛之の

この物語が体質的に持っている一種独特の雰囲気がどうも肌に合わないのだ。ここにはうまく言えないけれども、高い場所から人々に何かを呼びかけるような響きがある。

 と五木寛之は、かもめのジョナサンという物語に対して語っていた。この感覚だろう。
 個人的には、両方の視点が必要ではないか、と思う。「地上の視点」と「空の視点」が両輪である、とは金谷も述べていたはずだ。どちらがいい、というものではない。両方の視点があってこそ、両者のバランスがとれてこそ、先へ進めるのではないか。そういう意味で、「日本語は亡びない」は「日本語が亡びるとき」への反論というよりもむしろ、これで両輪が揃った、ということなのかもしれない。