ツァラトストラはかく語りき(下)

ツァラトストラはかく語りき」下巻(ニーチェ)読了。
恐ろしいな、ニーチェ

ツァラトストラかく語りき(下) (新潮文庫)

ツァラトストラかく語りき(下) (新潮文庫)

ついに下巻を読んだ。けっこう苦しかったが、ついに読破した。

かれらは、夕べ火のほとりに坐るとき、つねにわれについて語っている。すべての者はわれについて語れども、しかも、何人もわれについては、考えない!

 ニーチェは度々ブームとなるが、彼の思想は十分理解されていない。ニーチェの名を借りた主張や、思想の断片を繋ぎあわせた二次創作物がまかり通っているに過ぎない。
 もちろん、それらの二次創作物にも意味はある。つくった者にとっては、「つくる」過程から得られるものがある。消費する者にも、難解な考えをなんとか受け取ることのできるメリットがある。
 しかしやはり、ニーチェに関して言えば、原典に触れてよかった、と思う。原典は、力と迫力が違う。原典には、ニーチェの苦悩がある。苦悩とは違うかもしれない。思考が暴風のように荒れ狂って、矛盾とかそういうのも巻き込んで、手当たりしだい高いところ、遠いところへ展開していくようなイメージ。これは、原典でなければ味わえない。

人間の間に生きるとき、人間は人間を忘れる。すべての人間には、あまりに多くの前景がある。遥かを見はるかし遠くを求むる目は、ここにあってはその用をなさぬ!

 「神を殺した」ニーチェは「神」に代わるものを持ち出す必要がある。もちろんそれは「神の代用品」ではなくて、ん?なんだろう。同じ装置ではないし、なにかを解決するためのソリューションではないし、えっと、よくわかってない。
 とりあえず「それ」が「善悪の彼岸」という視点で、そこに至ったものが超人。至るための「橋梁」が人間。
 しかし、超人へと至るためには、「永劫回帰」を要請する唄を求め(第三部)、「憐憫」を克服(第四部)しなければならない。多くの矛盾がツァラトストラを襲う。
 矛盾を内包できる強さ、というか矛盾があっても前に進むしかないという覚悟、あるいはそれでも思想を展開できるという可能性、そういうものが「ツァラトストラ」にはある。恐ろしいな、ニーチェ

関連:ツァラトストラはかく語りき(上)- けれっぷ彗星