塩狩峠

塩狩峠」(三浦綾子)読了。
「感動」とはこういうふうに表現されるべきだろう。

塩狩峠 (新潮文庫)

塩狩峠 (新潮文庫)

 多くの読者が自己の原体験的なものとして捉える「塩狩峠」。キリスト教文学ではあるが、扱うテーマはキリスト教に限らず、人類に普遍的な「自己犠牲と愛」である。
 本書で得られる追体験は「完成」までの過程だろう。キリスト教の特徴である「人間としての完成」(=ここでは「愛」のために自己犠牲も厭わない人間)に至るまでの道筋が丁寧に描かれている。北海道に来る前の信夫は自らの身を投げ出して乗客を救ったかどうかは疑わしいが、終盤の信夫は、「ああ、彼ならそうするだろう」と思わせるような人間であった。
 多く書物で描かれる「完全なもの」は現実の僕らと断絶している。たいてい「その人はすごいな」で終わる。しかし、本書は違う。不連続に見えるものを確実なステップで連続させている。キリスト教に反感すら持っていた信夫が、なぜキリスト教に目覚め、「自己犠牲と愛」という解答まで至ったのか?どのステップにも飛躍がなく、現実と地続きになっている。
 「原体験」として捉える人が多いのも頷ける。中学生くらいで読むとよかったかもしれない。と思うが、そういえば「菊人形」のあたりは国語で昔読んだような気もする。自らのコアが定まった今読むと、この本では自分はもう変わらないな、と思ってしまう。感覚が鈍くなったのかもしれないし、経験の量が本書とだいたい同じくらいになったからかもしれない。むしろ思考の過程としては、一種の懐かしさすら覚える。しかしそれでも、静かな感動と十分な共感を忘れていない自分に、すこしほっとする。