真昼のプリニウス

「真昼のプリニウス」(池澤夏樹)読了。
山頂で、正午が訪れるのを静かに待った。

真昼のプリニウス (中公文庫)

真昼のプリニウス (中公文庫)

 人はどうやって世界と向きあえばいいのか?世界というのも抽象的だ。自然でもいい。環境でもいい。宇宙もそれなりにしっくりくる。ようは、自分以外のすべて。それをどう認識するのがよいのか?感覚的にずれがないのだろうか。

最近では山が生きて見えないのです。もっと正確に言うと、自分たちが作った火山のモデルなり論理なり数式の中には全然生きた火山が入っていない。わたしたちはまったく見当違いの方向を見ている、そういう気がするのです。理論の一段一段は間違いないのに、全体としてはまるで現実の自然からは遠い虚像になってしまっている。一段ずつを何度見なおしてもどこが違うのかわからない。しかし、たしかに違う。

 部分を集めても全体にはならない、とか、そういう次元の話ではない。もっと構造的に、言葉とかモデルとかに情報を圧縮している過程で失われるなにか。いや、情報という捉え方も間違っているのかもしれない。
 僕としては、一応「こたえ」は出してある。失われるなにかは、「伝える」ためには犠牲せざるを得ない部分だ、という一種の諦観である。
 受け取るぶんには言葉を介する必要はない。モデルも、論理も、数式も必要がない。主人公のように、山頂で正午が訪れるのを静かに待てばいい。
 でも、それを誰かに伝えようと思ったら、それではダメだ。伝えるという行為そのものが情報の欠落を前提としている。
 現実とモデルの乖離による違和感はきっと最後までなくならない。だから、このジレンマは普遍的であり続けるんだろう。
 多くのインプットがアウトプットすることを前提としたインプットだ。例えば、ブログのネタにすることを考えた上でものを見ること。研究に利用するために川を見ること。
 そうでない、もっと自然な、もっとフラットな見方、感じ方があるのではないか?山頂で正午を待つような、そんな向き合い方があるのではないか?思考と情報に埋もれた脳が、そう思っている。