今年読んでよかった本 in 2010

 年末なので、今年読んでよかったなーという本でも紹介してみようかと思う。対象は、僕が今年読んだ本のうち、オススメできる本。あと、このブログで言及したもの。ブログで感想書いてる以外にも何冊か読んではいるけど、それらは僕としては「読めていない」という扱いなので、取り上げない。

フォークの歯はなぜ四本になったか (平凡社ライブラリー)

フォークの歯はなぜ四本になったか (平凡社ライブラリー)

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 フォークやクリップはどうやって今のデザインになったのだろうか?なんとなくできあがってしまったものをエンジニアリングしたい。その欲求がデザインの本質を解き明かす。
 「完全なデザイン」は存在しない。デザインの良し悪しは一軸的に評価できない。「デザインが優れる」ということは、特定の人間が、特定のシチュエーションにおいて、モノに納得するということなのである。
 こうした既存の事物から一般的法則を発見するのは、エンジニアやデザイナよりも、どちらかというと、自然を観察する者の手法であるように思う。そう、例えばダーウィンのように。
ミミズと土 (平凡社ライブラリー)

ミミズと土 (平凡社ライブラリー)

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 ダーウィンに言わせれば、この本は、ミミズの本であるというよりむしろ、「科学的な方法でいかにして歴史に近づき得るかの探求の書」。ミミズは土をつくる。その大きさや量は微々たるもの。しかし、そこに「時間」という変数を組み込むことで、環境に大きく変化させてきたことに気がつく。
 従来、科学の領域ではなかった「歴史」に科学の手が届いた瞬間である。こういうふうに考えると、進化論の話とも噛み合ってくる。ミミズは小さな存在だが、ダーウィンがその生き物を通して見ていた世界は遥かに広大な時空間スケールだったのだろう。
 さて、過去を踏まえたら、未来も考えようという気持ちになる。国土開発と環境問題。僕がもっとも気になっているテーマである。八ッ場ダムも再び造られる方針となり、メディアの興奮は冷めてしまったようだが、問題は山積みのままだ。そんななか手にとった一冊がこちら。
河川堤防学―新しい河川工学

河川堤防学―新しい河川工学

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 当時の「感想文」で僕はこう書いた。堤防はダムの代替案である、と。それは治水ハードとして、間違ってはいない。しかし最近、ペトロスキーやダーウィンのように、もっと長く、長く考える機会が増えた。
 地形図を読む。過去の地図を読図する。今の環境を見るのではなく、100年のオーダーで考える。そうすると、堤防は環境にどんなインパクトを与えてきたかがおぼろげながら理解される。人工的な河道改修や築堤が、自然をどのように改変してきたかが。どうやら、そのインパクトはダムに負けず劣らずといったものであるかもしれない。なにが、どのように自然を改変してきたのか、そのメカニズムは直感的理解よりも、遥かに複雑だ。知れば知るほど、わからなくなる。
 それでも、「変化」が必要であることは、確信として持っている。そこへ、ドラッカー先生は冷や水を浴びせてくるわけである。曰く、「変化はコントロールできない。できるのは、先頭に立つことだけである」感想文はこちら
 ドラッカー先生の語り方は「それがなにであるのか」を示す前に、「それがなにでないのか」を明示する。例えば、マネジメントは「管理」ではない。はじめて読むドラッカーシリーズ2冊目は「マネジメント編」である。
 「変化」は求めなくても常に起こっている。その変化をチャンスとして捉えて、「意味のあるもの」とできる者こそが、チェンジ・リーダーであるという。その根底にあるのは、「資源を組織化することによって、人類の生活を向上させることができるという信念」である。それこそが、マネジメントである。
 去年も似たようなことを考えたが、僕の読書は自分の立ち位置を模索するというスタンスが強いようだ。悪く言えば、自分探し(笑)か。常に起こっている「変化」のなかで、例えば「技術者」であればどのようにふるまうべきか、ふるまい得るのか?久しぶりに読んだ司馬遼太郎は、ひとつのモデルを提示した。
花神(上) (新潮文庫)

花神(上) (新潮文庫)

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 医学を学んだ村田蔵六が、紙の上で学んだ技術と語学だけで、いつしか新政府軍の司令官になってしまう。翻訳の力が、技術の力が、思想→戦略→技術の流れをフィードバックさせ、社会のあり方を変革していく。
 社会に必要な、しかし分離したパートをつなぐこと。そういう立ち位置が、自分にとって、わりとしっくりくるのだなあ、という感覚がしている。まあ、わりと同じようなことを考えている人間は少なくないように思うけど。
 ただ、そうやって世界を模式化して捉えるのって、どうなのかなって感じているところも少なからずあって、仕事や研究はともかく、魂を売り渡してはいけないところ的な、自分のプライベートな部分との線引きはどうすればいいのか、イマイチ実感がわかっていない。
真昼のプリニウス (中公文庫)

真昼のプリニウス (中公文庫)

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 わからないままだと、この本の主人公のように「山頂で正午を待つ」ことになるのかなあ、とか思って、少し怖い。別に、バッドエンドというわけでもないのだけど。「感想文」でも引用しているけど、もう一度。

最近では山が生きて見えないのです。もっと正確に言うと、自分たちが作った火山のモデルなり論理なり数式の中には全然生きた火山が入っていない。わたしたちはまったく見当違いの方向を見ている、そういう気がするのです。理論の一段一段は間違いないのに、全体としてはまるで現実の自然からは遠い虚像になってしまっている。一段ずつを何度見なおしてもどこが違うのかわからない。しかし、たしかに違う。

 たぶん、こういう感覚を忘れて、どちらかのスタンスに立つことは容易なことと想像される。例えば、「そんなこと言っても、モデル化しなければ意味のあるアウトプットを出せない」というスタンスであったり、「そういう仕事は必要だけど、本質じゃないよね」と言い放ったり。
 それでも、まだ諦めたくない。明確な線引きをして議論を終わらせてしまわず、矛盾を許容することができるんじゃないかな、と思っている。もちろん、あやふやなままでいるということとは違う。どちらのスタンスもあり得るということ、なにかを為すときに、どちらの考え方も考慮に入れられること。人間ならば、それが可能だという、ある種の信念のようなものである。

貧しき人々 (光文社古典新訳文庫)

貧しき人々 (光文社古典新訳文庫)

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 そういった期待は、本書を読んだときにも頭をよぎった。貧しい環境が、「貧しき人々」をつくりやすいということは確実にある。物質的な余裕のなさが、精神的余裕のなさに直結するということは、誰もが気づくことである。
 ただ、それでも、人間の能力を過小評価したくない思った。人間である以上、「ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にできる」はずだ、という確信を捨てたくない。
 でも、そういう確信も、物質的な余裕の上にしか成立しないのだとしたら、「自分は恵まれているんだ」という感謝と後ろめたさの入り交じった感覚で流すしかない。そういう意味で、「君は恵まれているんだ」と告げることは、君は恵まれているから「貧しき人々」にならなかったんだ、と主張しているのと同義なので、相手の人間としての尊厳を侮辱するような発言だと思うのである。もしかすると、こういうふうに考えてしまうのが「貧しき人々」なのかもしれないけど。10年たったら、もう一度読みたい。

以上、7冊。来年も面白い本が読めますように。