スティル・ライフ

スティル・ライフ」(池澤夏樹)読了。
「自分の世界」と「外の世界」とは、一定の距離をおいて並立している。

スティル・ライフ (中公文庫)

スティル・ライフ (中公文庫)

 本書には2つの短編(中編?)が収録されている。宇宙や微粒子について語る男、佐々木との交流が描かれる「スティル・ライフ」、軍事技術者とその娘、そしてとあるロシア人のストーリー「ヤー・チャイカ」。
 「真昼のプリニウス」を読んでから、池澤夏樹の世界観には、なにか自分の求めるものがある、と感じている。池澤夏樹は、世界をどのように捉えているのか?以下は、本書の冒頭にある一節。

この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。(中略)
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。

 相対主義というのだろうか。「外の世界」も「きみの中にある広い世界」も上下はなく、優劣はなく、どちらかが「本当の世界」ということもなく、独立し、「一定の距離をおいて並び立」っている。だから、「ぼく」と佐々木のコミュニケーションも、外の世界を介在している。2人の話題は、例えば、素粒子の話、宇宙の話、地形の話。そういった外の世界の要素を乱反射するようにしてつながる。2人は真正面から向かい合うのではなく、感覚からとても遠くのものを介してつながっているのである。
 そういう意味で、この作品においてストーリーに物語性はないということかもしれない。上記の例で言えば、「星を見るとか」が、この作品のストーリーなのである。その話を切り出しただけでは、なんの意味もないように思う。
 では、この話のどこに意味を見出せば良いのだろう?読了したあとに味わうことのできる、一種不思議な感覚は、一体どこに起因しているのだろう。
 特に根拠があるわけではないのだが、僕らの普段の世界との距離感と、本書の登場人物の世界との距離感の違いかな、と思う。自分の世界と「外の世界」とが一定の距離をおいて並立している、というのは概念としては理解できるが、感覚として捉えると、こんなにも不思議な感じがする、ということなのだろう。