自分探しと楽しさについて

「自分探しと楽しさについて」(森博嗣)読了。
「自分」と「楽しさ」の関係、距離、それから優先順位とか。

自分探しと楽しさについて (集英社新書)

自分探しと楽しさについて (集英社新書)

第1章 自分はどこにあるのか
第2章 楽しさはどこにあるのか
第3章 他者は自分のどこにあるのか
第4章 自分は社会のどこにあるのか
第5章 ぶらりとどこかへ行こう

 例の三部作「自由をつくる 自在に生きる」「創るセンス 工作の思考」「小説家という職業」に対する読者の反響へのリプライという位置づけらしい。「自分探しというのは今に始まったことではない」「多くの人は答えを求めているのではない」とか、いつものとおり、森博嗣節である。そういったことは、まあ読む前から、タイトルを見たあたりから想像できるわけで、読む前に一番疑問を持ったのは、なぜ「自分探し」と「楽しさ」の2本立てにしたのかな?ということ。
 僕のなかでは、森博嗣論の「楽しさ」についての議論は「創るセンス 工作の思考」で終わったと思っていて、本書で言うところの、

本当の「楽しさ」とは、他者から与えられるものではない、ということだ。それは、「自分」の中から創り出されるものである。

という文に集約される。つまり、マスコミが扇動するような、つくられた、パッケージ化された、ストーリーをあらかじめ用意された「楽しさ」だけを「楽しさ」であると思っていたらもったいないね、ということ。難しいことではあるけど、自分で模索して、「自分」という文脈に固有な「楽しさ」を味わうのはどうだろうか、という提案である。
 で、僕は「つくるセンス」の中身を凝縮するとそういう話だと捉えていたので、なんでまた「楽しさ」について再論するのかよくわからなかった。しかも、「自分探し」とはどういう関係があるのか?と。
 なんとなく気づいたのは、僕は「楽しさ」と「自分」を少し遠い位置で捉えていたということ。たぶん、著者の生き方は「楽しさ」を主軸に人生を送っているところがあって、「楽しさ」と「自分」の一致度が高い。それに対し僕は、「自分」っていうのを、どちらかというと使命感というか、社会貢献というか、なにか絶望的な状況のものを良い方向に向かわせる手伝いがしたい、みたいな欲求がある存在と認識しているようで、たぶん実行ベースでは、それは楽しくない。要するに、「自分」と「楽しさ」の一致度が低いと、感覚的には理解しにくいところがあるのかもしれない。
 ただ、そういう人間にとっても、「楽しさ」を見つけるというプロセスと「自分」を探すプロセスはかなり似通ったところがあることは理解できる。そしてなにより、森博嗣のような、「楽しさ」を見つけている人間が、楽しそうに生きているのを見ると、それもありかな、という憧れを抱かずにはいられないのである。