沈める滝

「沈める滝」(三島由紀夫)読了。
「沈める滝」は答えを出せただろうか。

沈める滝 (新潮文庫)

沈める滝 (新潮文庫)

 三島由紀夫の作品は「金閣寺」くらいしか読んだことがないのだけど、奥只見ダムの話ということなので、興味を持って読んでみた。
 「砂の女」を読んだときにも思ったのだけれど、自然の描写が優れた小説は、それだけで味わい深い小説になる。新海誠の映像作品を見ると、背景が恐ろしいほど作り込まれていて、そこに意味のようなものを感じ取りそうになるが、そういったものの文章バージョンだろう。

そこから雪崩の地点までの間には、枝をたわめて深雪に埋もれている低い木々は別として、雪を冠って抜ん出ている梢々が、いっせいに異様な感動を身に浴びたように、わなないているのが眺められた。

 石を玩具として育った無感動な青年と、石のように不感症の女が創造する、人工的な愛。その作業は、あたかも自然の上に築くダム建設のようである。

ダム建設の技術は、自然と人間との戦いであると共に対話でもあり、自然の未知の効用を掘り出すためにおのれの未知の人間的能力を自覚する一種の自己発見でなければならなかった。

 最終的に、「滝」(=顕子)はダムによって、埋められてしまう。誰に造られることもなく、自然にそこにあっただけの滝は、「堅固な別の世界」に属しているが故に、美しかった。しかしそれも、ダム(=人工的な愛)ができてしまえば、どうということはない、木や石や、そのほかの小さな自然物と同じように、圧倒的な堆砂のキャパシティに耐えられず、埋没してしまう。悪い癖だが、恋愛に失敗したときのように、後悔が頭の中を巡る。
 最初は、滝がもっと大きかったらな、と思った。それこそ、ナイアガラの滝みたいに途方もなく大きな滝だったら、ダムに埋没することもなかったのにな、と。でも、そういうことはやっぱり現実ではあり得ないだろう。
 次に想像したのは、力加減が分からずに人形を壊してしまう子供。もう少し小さいダムを造れば、滝を埋めずに済んだかもしれないのに。でも、ダムなんてこれまでの歴史で造ってきたことがないから、ひたすら安全側に、大きいダムを造るしかなかった。
 最後に、「愛」というマインドセットをそのままインストールすればよかったのに。そう思った。でも、2人はそれをしなかった。「できなかった」ということになっている。つまり、作者の試みであると言ってよい。現実の世界で造られてきた「愛」というマインドセットは、様々な、歴史的な文脈に依っている。それが、果たして、違う文脈でも、同じものに辿りつくことができるだろうか。そういう挑戦であったと解釈している。
 もし、辿りつくことができるのであれば、現代に存在する「愛」というマインドセットが普遍的なものだ、ということになるし、そうでなければ、そうではなかった、ということだ。「沈める滝」は答えを出せただろうか。