嘘つきアーニャの真っ赤な真実

嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(米原万里)読了。
どの人にも、まるで大海の一滴のように、母なる文化と言語が息づいている。

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

 ロシア語通訳者の米原万里(マリ)が、ソビエト学校時代の友人を訪ねるノンフィクション。主人公の性の伝道師リッツァ、虚言癖を持つ富裕層アーニャ、優等生ツンデレ少女のヤスミンカ。3人は皆出身は異なるが、共産主義者の親を持ち、プラハで少女時代を共有した友人である。
 日本は他国と陸で接しておらず、単一民族(と言っていいのか諸説あるようだが)であるため、「民族」という概念が希薄である、とはよく言われる話である。自らが「ある民族である」とか「〇〇人である」とかそういった帰属意識は、依って立つ基盤がないときの、ある種の不安定さから生じるものなのかもしれない。

異国、異文化、異邦人に接したとき、人は自己を自己たらしめ、他者と隔てるすべてのものを確認しようと躍起になる。自分に連なる祖先、文化を育んだ自然条件、その他諸々のものに突然親近感を抱く。これは、食欲や性欲に並ぶような、一種の自己保全本能、自己肯定本能のようなものではないだろうか。

 マリは日本に戻ってからも、旧友たちと文通を続けるが、いつしかそれも途絶えてしまう。共産主義諸国は時代の流れとともに、政治的に難しい状況に陥っていくからである。
 個人同士の関係と、政治や国家レベルでの変動。スケールの違うはずの現象は、しかし無関係ではいられない。現代は技術によって克服されつつある。インターネットは距離を無効化できるし、音声だけでなく映像も無理なく送れるレベルに到達しつつある。しかしそうであっても、中国の検閲は健在であるし、通信インフラを整備できる程度の豊かさを確保できない地域がほとんどであり、今回の地震で明らかになったように未だ脆弱なシステムである。
 どれほど抗っても、自分の所属する社会からフリーになることはできない。その社会を通じて、自分がどういう民族であるか、どういう文化に根づいているか、といった情報が流入し、自らなんども確認することで、アイデンティティが形成されている。

だいたい抽象的な人類の一員なんて、この世にひとりも存在しないのよ。誰もが、地球上の具体的な場所で、具体的な時間に、何らかの民族に属する親たちから生まれ、具体的な文化や気候条件のもとで、何らかの言語を母語として育つ。どの人にも、まるで大海の一滴の水のように、母なる文化と言語が息づいている。母国の歴史が背後霊のように絡みついている。