昭和16年夏の敗戦

昭和16年夏の敗戦」(猪瀬直樹)読了。
なぜ「昭和20年夏の敗戦」ではなくて「昭和16年夏の敗戦」なのか?

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)

それは、衆議院予算委員会で、石破茂菅総理文民統制を問う場面であった。

私は、若い方々に、何を読んだらいいですか、と聞かれることがときどきあります。ぜひこの本を読んでくださいと、いつも申し上げるようにしております。『昭和20年夏の敗戦』ではありません。なぜ『昭和16年夏の敗戦』、このような題になっているか。

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 政治的立場は置いといて、ぜひ動画を見てもらうとよい。お急ぎの方は3:50くらいから。「昭和16年夏の敗戦」は、日米開戦直前の夏、省庁の垣根を超えて集められた若手エリートたちによる即席シンクタンク「総力研究所」が、戦争の経緯をシミュレーションするというノンフィクション。それは、実際の戦争とほぼ同じものであった。
 それならば、なぜ開戦に踏み切ってしまったのだろう。なぜ戦争を回避できなかったのだろう。様々な読み方があって良いと思う。だが、それは「軍部が暴走したからだ」「精神論に走ったからだ」などといったテンプレートでは語り切ることのできないものがある。
 そうした軍国主義的思想・精神論などは、現在となっては日本国民のアレルギーとなり、もはや表層には現れてこない。しかし、太平洋戦争の過ちの真髄は、もっと深く、日本人という国民に根ざした問題がある。
 一言で指摘するのは難しいが、議論にファクトが欠けていても、マクロな方向付けがあれば、その方向へ全体として動いてしまう性質ではないか。それは軍国主義であってもよいし、宗教であってもよいし、地震の際の混乱であってもよい。むしろ、こういった性質は、量的なことが問題とならない場合、つまり個人のふるまいの問題だったり、小さなコミュニティの問題においては、プラスに働くことも多いような気がする。
 しかし、僕らが暮らす社会というのは、資源が十分に存在するわけではなく、かつ自分たちが全く見ず知らずの人々と影響を与え合うような広範囲・多関係の社会である。そういった社会の一員として生きる以上、自らの所属する集団の性質を知っておく必要がある。
巻末の対談で猪瀬直樹もこのように指摘していた。

経済政策に限らず、マクロの議論は危ういんです。神学論争になりかねない。僕はそれが嫌だから、道路公団民営化の際にも、なにが無駄か、どこに不正が隠されているかと、徹底的に事実で迫りました。ファクツ・ファインディングです。

ファクトベースで、ということはあまりにも当たり前すぎて意見にもならないが、マクロな議論が日本型意思決定システムと悪い意味で強く結びついている、という自覚がなければ、日本人の性質が悪い方向に機能することは防ぐことができない。