骨は珊瑚、眼は真珠

「骨は珊瑚、眼は真珠」(池澤夏樹)読了。
「見える」のに「触れられない」ということの淋しさ。

骨は珊瑚、眼は真珠 (文春文庫)

骨は珊瑚、眼は真珠 (文春文庫)

 池澤夏樹の短編集。「真昼のプリニウス」、「スティル・ライフ」と読んできた僕にとっては、池澤夏樹の本を「世界をどう捉えるべきか」という視点で読んできたところがあり、短編で展開される複数の世界のアーカイブは、ストーリーなどを抜きにして、その世界観だけで興味深いものである。
 短編「北への旅」では、世界でただ一人になってしまった男は「死んでしまった世界のために」泣き続ける。「眠る女」では、まどろみのなか、祭事イザイホーに参加する自分を見つめ続ける。「骨は珊瑚、眼は真珠」では、死者として妻へ語りかけるスタイルである。
 複数の短編を通して、池澤夏樹の考える「世界」が見えてきた。視点だけがあり、見つめることしかできない静的なもの。干渉することができない淋しさ。世界に対する本質的な干渉不可能性から派生する感傷を、丁寧に描いているのかもしれない。
 僕も、アクティヴなときは「世界に影響を与えていこう」という意気込みを持って向かうことができるが、病気のときとか、雪のなか立ち尽くしているときとか、なんといえば良いのか、静的な状態のときには視点だけを残し、世界との関係性が希薄になると感じることがある。
 本質的には世界に干渉できない。それは、自分の力が小さいから及ばない、というよりは、そもそも構造的に世界が今のようなかたちになっていて、それをどうこうすることはできない、といった類のものだ。しかしそれは絶望のような強い感情ではなく、「そういうものである」淡々と受けとめ、流していく。そういったあり方は最も「自然」に近い。