過去にしっかりと立てた問いは確実に解けている

 世の中には分からないことがたくさんある。馬鹿みたいな書き出しだが、本当にその通りだ。
 今日、昔の手帳を引っ張り出していたのだが、そこに、こう書いてあった。「環境コンサルはなぜ業務を公表しないのか?」当時の自分はまったくわからなかったもののようだ。いくつかの案が箇条書きにされているが、おおよそ的はずれである。
 しかし、今であればなんのことはない、守秘義務の問題であることがわかる。公表すれば、客観性・中立性が揺らぐような力が働くことは明らかである。
 過去に解けなかった問いといえば、こういうのもある。なぜ、岡本太郎は晩年にバカを装うことにしたのか?という問いだ。ブログに書いてあると検索ができて便利である。
 これの解答はすでに出ていて、ニーチェの言う「超人は孤高であるのではなく、あえて大衆の間に出ていくべきだ」ということであり、「砂漠」を書くことのできる強さである。
 こういうふうに、過去にしっかりと立てた問いは、そのときに解けなくても、やがて自然に(?)解けているものであるようだ。別に、自分の頭が急によくなったわけではないだろうし、参照できる経験リファレンスが膨大に増えたわけでもないだろう。
 これは、しっかりと問いを立てたことによって、それを解決しようとするモノゴトの見方・立ち位置、「視座」と呼ぶことが許されるだろうか、そういった姿勢が形成されることで、問いに対する解が生み出されやすくなるからかな、と思った。