対極と爆発

「対極と爆発 − 岡本太郎の宇宙1」(岡本太郎)読了。
質量感のある巨大な天球が、2つ衝突するイメージ。

 岡本太郎は、芸術は理解されたら、もはや芸術ではないと言う。しかしそれでも、岡本太郎を「理解」するために欠かせない概念。それが、「対極」と「爆発」。僕が岡本太郎と「出会った」経緯はこのようである。一言で言えば、偶然、本屋で遇い、強烈な反発を覚えながらも惹かれていったというところだろうか。

うまいから、きれいだから、ここちよいから、という今日までの絵画の絶対条件がない作品で、しかも見るものを激しく惹きつけ圧倒しさるとしたら、これこそ芸術の本当の凄みであり、おそろしさではないでしょうか。芸術の力とは、このように無条件なものだということです。これからの芸術は、自覚的に、そうでなければならないのです。

 「爆発」は聞いたことがあるひとも多いだろう。ここでは、「対極」について取り上げる。対極。それは、NOを強烈に叩きつけることだ。世の中にはいろいろな主義主張があり、これに対する姿勢も色々なものがある。「ああそうだ」と追従する姿勢。「そういう考えもあるがこれもある」と両方を認める姿勢。「それもいいが、もっとこっちよりのほうがよいのでは?」という妥協の姿勢。などなど。
 しかし、岡本太郎のパワーは、本質は、なにに由来するかと言えば、「そんなのはおかしい!こうだ!」といった反対の姿勢である。僕のイメージでは、質量感のある巨大な天球が2つ衝突するイメージ。その瞬間は膨大なエネルギーが生じ、それらが光と熱に転移する、圧倒的な光景に違いない。ん、これは「爆発」か。2つの天球を衝突させようとすることが「対極」だ。
 岡本太郎は一時期「対極主義」という言葉を使ったそうだが、やがてその言葉は使わなくなったそうだ。「主義」になってしまった瞬間に、そこに理解者が集い、追従者が続き、「対極」は消失してしまうからだ。あくまでも「対極」。

ところで、理解されることを、あくまでも拒否することが、芸術の本質である。(中略)もし己が理解されたとしたら、これはもうすでに己でない。(中略)己を理解させようという情熱と、それにもまして、コミュニケーションを断絶しようとする意志と。

 芸術には、共通の価値判断が成立しなくてもよい、してはダメだ、ということ。しかし、共通の価値判断が成立しないのに、社会にインパクトを与えられる、というのが凄い。そして、理解できない。方向性を持たない無条件な力ということだろうか?しかし、そういうわけでもない気がする。
 既存の芸術が極めて狭い帯域で方向性を示しているのに対し、岡本太郎の芸術は、もっと人間という存在に根ざした、広い帯域で方向性を示しているということだろうか?まだわからない。

 なお、本書は対談のところで急激に読みづらくなるので、ご注意。対談終わるとまた読みやすくなる感じ。さて、それでは、国立近代美術館の岡本太郎展、行ってきます。