漸減する風土
「風土」(和辻哲郎)読了。
風土の占める割合は、どんどん小さくなっている。
- 作者: 和辻哲郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1979/05/16
- メディア: 文庫
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目次
第1章 風土の基礎理論
風土の現象
人間存在の風土的規定
第2章 三つの類型
モンスーン
沙漠
牧場
第3章 モンスーン的風土の特殊形態
シナ
日本
第4章 芸術の風土的性格
第5章 風土学の歴史的考察
ヘルデルに至るまでの風土学
ヘルデルの精神風土学
ヘーゲルの風土哲学
ヘーゲル以後の風土学
風土とはなにか?
風土とは、自然環境ではない。自然環境とは、例えば、気温とか、湿度とか、風邪の吹き方、土壌の構成物質などのことだ。一方風土は、そうした自然環境に影響を受けて形成される人間群の精神構造を指す。精神構造といってもわかりづらいが、自然観・人間観、あるいは自己の了解の仕方。
思い出すのは卒論で扱った(かすった、くらいだけど)メコンデルタと紅河デルタの人々の違いである。どちらもベトナムでありながら、人々の考え方がかなり違う。もちろん、南北に分割された過去とか、中国の影響の仕方とか、社会主義と至上主義とか、そういう政治的・経済的な要素がないではないが、もっと本質的なところで違うと感じた。
それが、洪水の起こり方だ、というのが僕の(確かめようとしていない)持論である。メコンでは見渡すかぎりを水中に沈める大洪水、紅河では堤防で防ぎ得るような洪水、両者の自然観が、ものの考え方が大きく異なるのも当然であると考えたものだ。
風土は、人間を理解するための「切り口」である。
歴史、民族、宗教など、人間を理解するための切り口は様々存在する。これらのどれもが自然環境の影響を受けているが、同時に、人間が半意図的につくりあげてきたものである。歴史は、歴史を綴ろうという意図なしには形成されないし、宗教は宗教をつくろうという意図なしには形成されない。
これに対し風土は、人が意図せずとも、考え方や思想、文化、社会、構造物などに反映されていくものである。そういった意味で、これまでの人間を理解する切り口とは、質的に異なるということになる。
現在における風土の意味は
グローバル化の影響というか、むしろフラット化というのかもしれないが、人間は自然環境の影響をどんどん受けにくくなってきている。自然環境をコントロールし、快適に生活するための技術は日に日に進歩しているし、コミュニティは空間的広がりを超越し、むしろ同じ趣味や指向を持つ者どうしがつながるようになってきている。
善い悪いではなく、そういう変化が見られる。最近では揺り戻しもあり、地域コミュニティを築きなおそう、といった方向性はLOHAS系の人々の間ではわりとよく見られることだ。
そういう時代においては、人間群の精神構造のなかで、風土の占める割合っていうのは、どんどん小さくなっているんじゃないだろうか。「風土の占める割合」という言い方にはやや違和感があるが、例えば、風土という切り口をもって人間群を眺めた場合、行動や文化、社会の理由を解明できるケースがより稀になってくる、ということである。風土は、漸減している。
しかし、そもそも定義として眺めたとき、風土は意図せずとも、社会や思想に反映されるものである。となれば、風土は漸減しても、ゼロになることはない。移動と定住にかかるコスト≒ゼロになることがあれば、あり得るのかもしれないけど、まあ現実的にはない。
自らのなかの「風土」に自覚的であったらもっと面白いんじゃないだろうか。これまで、人間は風土に無自覚であったけど、それって、自分たちの指向性のルーツを知らないということだ。「人類はどこから来てどこへ行くのか」じゃないけど、集団としてどういう指向性があって、それはどういう自然環境に由来しているのか、っていうのは、社会を次のかたちにスムーズに移行させる上で重要なように思う。