ニーチェ入門

ニーチェ入門」(竹田青嗣)読了。
僕がツァラトゥストラを読んだときに陥った致命的な過ちは修正された。

ニーチェ入門 (ちくま新書)

ニーチェ入門 (ちくま新書)

 僕のニーチェ読書計画は、ツァラトゥストラはかく語りきニーチェ入門→善悪の彼岸道徳の系譜という順序で読んでいこうと思っている。例によって、光文社古典新訳である。原著のなかに入門を挟んだのは、思想の再体系化、というのももちろんそうだけど、加えて、一般的な言説はどうなっているのかな、ということを確認したかったから。
 また、ニーチェの思想を噛み砕いて教えてくれる、という点でもなかなか悪くないのだが、個人的には、ニーチェ思想が、現代のなかでどのような立ち位置にあるのか、というところの示唆が興味深い。僕は思想の歴史だとか、バックグラウンドについてはなんにも知らないので、「この人はこういう思想なんだ。ふーん」というように、思想を個人に独立したものとして読んできた。体系的に学んだことがない、ということ。
 でも、実際はそんなはずはなく、どういう思想の影響を汲んでいるとか、現代においてなぜ注目されているかとか、そういう文脈が存在するはずだ。ニーチェに関しては、 マルクス主義が残念な感じになったあと、日本では現代思想ブームというのが80年代にあったらしい。いや、あったんだろうな、とうすうすは感じていたけど、まだ自分生まれてないし。そのなかで、ニーチェポストモダニズムの源流と捉えられていたらしい。そして、ニーチェの思想は日本の思想的脆弱さの犠牲となり、奇怪なものへと変質してしまった
 で、著者が挑んだのは、怪物と化してしまったニーチェをいったんなかったことにして(と言ってもある意味もともと怪物ではあるけど)、混乱したニーチェ像に新しい輪郭を与えること。そういう意味で、本書はポスト・ポストモダニズム(っていう言い方あるの?)の、フラットなニーチェ入門と言えそうである。
 僕がツァラトゥストラを読んだときに陥ったいくつかの致命的な過ちは、本書によって修正された。例えば、いわゆる「強者の論理」(=理屈でなにを言っても結局は強いものが勝つ)はニーチェの最も嫌悪するルサンチマンであること。例えば、「客観的心理は存在せず、存在するのは、生命存在がそれぞれの<力>に基づいてほどこした価値評価と諸解釈の秩序だけだ」という思想は、相対主義とは根本的に異なること。などなど。どうやらこれで、満を持して、善悪の彼岸に向かうことができる。以下、抜き書き。

人類の究極目標というものを考えて多くの人はこう言う。それは万人のあるいは最大多数の最大幸福にあると。じつは違う。(中略)問題なのは、どれだけ高い・非凡な・有力な「人間の範例」を産み出しうるか、ということだ。

ニュータイプですね。まあ、ファーストインプレッションでは誤読必至というか。

もはや明らかなことだが、彼のキリスト教批判は単なる「宗教」の批判でもなければ、単なる「道徳」の批判でもない。(中略)さまざまな問いの「真の動機はなにか」という観点から、いわば人間の思想行為それ自体に対するひとつの根底的な批判を投げかけたと言えるのである。

現代的なニヒリズムは、キリスト教的な理想の反対物じゃないってことみたい。

人々が争い合うこの世のありさまを見て、わたしたちは誰しも、すべての人間が互いに「他のために」を優先させれば争いもなくなるだろうに、と考える。しかしこの“夢想”は、まず人間の自然に反しているという理由で、そのままでは絵空事でしかない。

現実を直視する強さがあるか?ということが問われている。

関連:
ツァラトゥストラはかく語りき(上) - けれっぷ彗星
ツァラトゥストラはかく語りき(下) - けれっぷ彗星