うさんくさい

 友人と就活の話をする。彼は、かねてからの、純情一筋の、日本の根幹を支えることを誓う、公務員志望である。皮肉ではない。僕が戦コンを受けていた、という話をすると、やや怪訝な顔つきする。まあ、おもしろいだろうけど、なんかうさんくさくないか?そう、言うのである。

 なるほど、もっともな話だ。知らないもはうさんくさい。そういうものだろう。しかし、逆に言えば、対象を解体し、要素を明らかにし、全体像を把握することで、うさんくささは消失する。
 良いか悪いかの価値判断を下せる土台ができるからだ。土木行政も、金融市場も、コンサル業界も、宗教も、ニセ科学も。定義を知り、仕組みを知り、力学を知り、歴史を知ることで、それはもはや、うさんくさくはない。
 それは、こういう定義のものであり、このような仕組みであり、このような力学が働いていて、こうした歴史を経て、現在のかたちをしている。そのような理解のあるものに対して、うさんくさいと感じるだろうか?
 価値判断は保留になるかもしれないが、そのための基礎が成立している。もはや、とりあえずのラベリング「うさんくさい」は必要ない。うさんくさいというのは、理解するためのコストを惜しみ、手っ取り早く判断を下すための、ショートカットスキームである。この意味で、感情に近く、親和性が高い。
 さらに一歩進んで考えれば、うさんくさいと感じるものは、強く感心があるが、なんらかの理由で理解を拒絶し、遠ざけているものであるような気がする。準備が整い次第、理解をしに出かけたほうがよい。もちろん、安全な旅ではないが、新たなフィールドを切り開く。そう考えたのは、友人が帰ってから2日後のことである。