永すぎた春

「永すぎた春」(三島由紀夫)読了。
三島由紀夫なのに、さわやか爽快!

永すぎた春 (新潮文庫)

永すぎた春 (新潮文庫)

 それでですね、なぜか指導教員バレしたブログであまりプライベートな話は書きたくないのだけれど、この本は僕の恋愛事情あるある大事典みたいな気がして手にとったわけだ。そして、まさにドンピシャ。そもそも設定が「T大法学部の学生宝部郁雄と、大学前の古本屋の娘木田百子の、交際を綴った恋愛小説」という時点で、もうね。

しかし「なにか言って!」と強制されると、郁雄は男性の通弊で、折角ひたっていた幸福感から、呼びさまされたような気持ちになる。
「だって、なにも言うことないじゃないか」

……あれ?俺いつ小説出したっけ?的な。だから、何度も言うように、僕は永遠の聞き手であって、なにか話したりするのはまったく好きではない。匿名ブログで壁に向かって書評を書きつけるぐらいがせいぜいなわけだ。そういう人間に対して「なにか話して」などというのは、猫に対して「雪の庭で走り回って」、犬に対して「こたつで丸くなって」というくらいのスカボロー・フェアであると言わざるをえない。

あれ以来百子の心には、小さな怖れが巣食って、それがいつまでも消えなっかった。不信でもない。また、怒りや不安でもない。郁雄の性格の一端をのぞいたことが、この小さな怖れの原因になり、その怖れはどんなに強く郁雄を信じ、どんなに完全に彼を許しても、なおあとに残るものであった。

……ごめんなさいごめんなさい。

何故なら二人の和解のためには、恋だの愛だのよりも、今味わっているような真面目な事件の与える感動のほうが、ずっと効き目があったからである。

……ですよねー。結局、自分たちが自分たちを見るような「向かい合い席」型より、同じ方向を向いている「並び立ち」型のスタイルのほうが上手くいくような気がする。いや、人によるのかなあ?人と接するのが得意なナチュラリア充タイプの人は「向かい合い席」型でも上手くいくのかも。

 という感じで、共感するところしかなかった。時代を経て色褪せない心の機微を描けるというのは流石の一言であり、しかも、よりにもよって、三島かよ、という。しかも、タイトル詐欺だし。なお、このエントリは諸事情により削除されるおそれがあります(笑)