箱男

箱男」(安部公房)読了。
「見る⇔見られる」の逆転と狂気の世界。

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

 砂の女→壁ときて、箱男。おもしろいけど、ちょっと僕には芸術性が高すぎる感がある。ここまでぎりぎり小説、という境界線を攻めたような作品。シュルレアリスムに近いのかもしれない。メタルギアソリッドに別次元の面白さを追加できる程度の力は十二分にある。曰く「だからめったに箱男に銃を向けたりしてはいけないのである」

見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる傷みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。しかし誰もが見るだけの人間になるわけにはいかない。見られたものが見返せば、こんどは見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。

 見ることと見られること。主題である。人間の自己形成は、コミュニティのなかで、他者の視線を受け止める(=見られる)ことで為されてきたはずだ。ただ、いわゆる「メディア」が誕生することで、この性質が大きく変化した。視線を受け止めなければならない人間と、視線を投げかけるだけですむ人間。その差が拡大した。もちろん、昔から「垣間見」みたいな、「見られる」ことが欠落した状態での、「見る」という行為は存在したはずだ。それでも、見る人間と見られる人間の乖離が進行したのは間違いない。
 技術とサービスと文化とが、それを可能にしたということ。そういう社会では「見る⇔見られる」のバランスを保てない人間が増大したとしてもおかしくない。もともと「見る⇔見られる」スキームには、一種の危うさが内在されていた。上で引用したようなとこね。それが、時代によって増幅されたと見るのが正しいかもしれない。
 で、箱男がすごいのは、それをもう一段立体的に描くために「書く⇔書かれる」も織り込んでしまったところだ。結果、読者は迷宮に放り込まれることになるが、視点移動のぐらぐら感がなかなか心地良い、あるいは気持ち悪いわけだ。まあ、ソフィーの世界であり、ever17であり、劇場版エヴァというところだろうか。