箱男
「箱男」(安部公房)読了。
「見る⇔見られる」の逆転と狂気の世界。
- 作者: 安部公房
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2005/05
- メディア: 文庫
- 購入: 12人 クリック: 69回
- この商品を含むブログ (226件) を見る
見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる傷みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。しかし誰もが見るだけの人間になるわけにはいかない。見られたものが見返せば、こんどは見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。
見ることと見られること。主題である。人間の自己形成は、コミュニティのなかで、他者の視線を受け止める(=見られる)ことで為されてきたはずだ。ただ、いわゆる「メディア」が誕生することで、この性質が大きく変化した。視線を受け止めなければならない人間と、視線を投げかけるだけですむ人間。その差が拡大した。もちろん、昔から「垣間見」みたいな、「見られる」ことが欠落した状態での、「見る」という行為は存在したはずだ。それでも、見る人間と見られる人間の乖離が進行したのは間違いない。
技術とサービスと文化とが、それを可能にしたということ。そういう社会では「見る⇔見られる」のバランスを保てない人間が増大したとしてもおかしくない。もともと「見る⇔見られる」スキームには、一種の危うさが内在されていた。上で引用したようなとこね。それが、時代によって増幅されたと見るのが正しいかもしれない。
で、箱男がすごいのは、それをもう一段立体的に描くために「書く⇔書かれる」も織り込んでしまったところだ。結果、読者は迷宮に放り込まれることになるが、視点移動のぐらぐら感がなかなか心地良い、あるいは気持ち悪いわけだ。まあ、ソフィーの世界であり、ever17であり、劇場版エヴァというところだろうか。