ハーモニー
「ハーモニー」(伊藤計劃)読了。
以下ネタばれあります。注意。
- 作者: 伊藤計劃
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2008/12
- メディア: 単行本
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ラスト。調和のとれた(=争いのない、皆が健康で幸福な)社会の完成を、社会を人間に合わせるのではなく、人間を社会に合わせることで、成し遂げる。意思の消去、という方法で。これに対する反論としては、(1)そんな社会は、そんな人間はおもしろくない、(2)社会のために人間があるのではない。人間のために社会があるのだ、(3)個性と意思にこそ人間の価値があるのだ。といった本質的な反論が考えられるし、たぶん、そういう疑問提起なんだと思うけど、もっと機能的な反論が考えられるんじゃないだろうか?
つまり、その方法で「調和のとれた社会」が成立するのか?という反論だ。ストーリーの前提としては、意思が失われても人間は表面上それまでと変わらないような行動をとることになっている。ただ、そこに自由意志は介在せず、合理的な判断、「外注」された判断が行動を決定する。個人的な嗜好や判断にかかるバイアスは、「調和のとれた社会」には必要のないもの、とされている。
本当にそうだろうか?行動の判断は誰がするのか?すべての人間を管理するマザーコンピューターの存在は示唆されていなかったから、今までどおり、人間が決定するのだろう。それも、意思のない、合理的に判断できる人間だ。
個人が合理的にふるまえば、全体は合理的にふるまえるだろうか?僕は、そうではないと思う。イレギュラーな人間の存在が、必ずしも「合理的」でない人間の行動が、集団の「間違い」を修正していくと考えている。
伊藤計劃が好んで用いた遺伝子のアナロジーを借りるのであれば、「突然変異」と言っても良い。遺伝子の複製は、基本的にソースコードをコピーするだけだが、稀にそうではないものが現れる。もちろん、そうした突然変異の多くは淘汰されるが、ごく一部は新たな種を産み、異なる環境に適する種を産み出していく。
遺伝子の仕組みには、このような「遊び」がビルドインされている。人間の意識に関しても同じことが言える。必ずしも「合理的」でない意思やバイアスが存在したからこそ、「それなりに」調和のとれた社会が形成されている。
そういった「遊び」のない社会は、レミングスが集団で海に突入するように、大きなカタストロフを避けることができない。ご存知のとおり、太古の昔から形態を変えずに生き残っている生物種はほとんど存在しない。遊びのない社会は、調和したまま栄え、調和したまま亡びるのではないか。一枚板は、弱い。