個体と風景

ここ2ヶ月は、中学・高校以来の魚捕り頻度となっている。

きれいな色のでたヨシノボリ。なんだろう?シマヨシノボリかな?関東人なので、ボウズハゼを見たのも久しぶり。
 生き物が好きな人には、生き物の個体そのものが好きな人と、それを取り巻く風景が好きな人がいる。もちろん、両方が好きな人が多いのだろうけど、そのバランス、というか、どっちにメータがふれているか、というのは、けっこう人によってばらつきが大きい。
 そう気づいたのは高校の頃で、生物部の友人と話していたときだ。「魚も好きだけど、俺がほんとうに好きなのは風景だな。確かにヤマメとかイトウとか好きだけどさぁ、夕日が照らす川を魚がチャプチャプ跳ねてるのキレイじゃね。そういうの」彼はそのように言った。一方で、ある友人は巨大なオカダンゴムシやらメネラウスモルフォやら、そういったものを嬉々としてコレクションしていた。
 子供のころは、やはりそういった「個体」のほうが興味を惹きやすい。成長とともに「風景」(というか、「シーン」くらいが妥当?)に興味が移行するのは、個々の複雑な風景に、複層的に過去の記憶が関連づけられるからだろうか。単に、背が高くなって、視野が広くなったからではないだろう。
 あ、うーん、でも、視界が広くなるから、というのはあるかもしれない。視界を広げるには、個々の要素にいちいち注目していてはダメだ。自分に馴染みのある地面、岩石、植物、こういう要素でできているから全体を捉えよう、という気になるのであって、サインカーブの続く虹色の地面、人の手のかたちをした石、なにやら不愉快なかたちをした植物、こういう要素で構成されている世界に降り立ったら、まず間違いなく風景ではなく、部分に注目するだろう。抽象画を見ても「?」となる感覚に近い。
 必ずしも要素について詳しく知っている必要はない。馴染んでいさえすれば良い。そうすれば、全体を全体として捉えることができる。視界は自然と広くなっていくものかもしれない。