分類思考の世界

「分類思考の世界」(三中信宏)読了。
「分ける」とはどういうことか?あるいは、戦略的な「分け方」。

分類思考の世界 (講談社現代新書)

分類思考の世界 (講談社現代新書)

目次
  プロローグ 生まれしものは滅びゆく
  第1章   「種」に交わればキリがない
  第2章   「種」よ、人の望みの喜びよ
  第3章   老狐幽霊非怪物、清風明月是真怪
  第4章   真なるものはつねに秘匿されている
  第5章   いたるところリヴァイアサンあり
  第6章   プリンキピア・タクソノミカ
  第7章   一度目は喜劇、二度目は茶番
  第8章   つながるつながるつながるなかで
  第9章   コボコフの”ブルース”
  第10章  目覚めよ、すべての花よ
  第11章  時空ワームの断片として
  第12章  「種」よ、安らかに眠りたまえ
  エピローグ 滅びしものはよみがえる

 「分ける」ということが、本質的なものを捉えそこねたミスリーディングな手法だ、という誤解はしばしば見受けられる。うちの研究グループは、メカニズム解明が主な分野で、分類ばかりしているので「分類学者」などと揶揄されたりするし、友人と小説かなにかの話をしていて、ジャンル分けにはなんの意味もないと強く主張されることもあった。そうして手にとったのが本書。
 確かに「世界は分けてもわからない」。しかし、「世界は分けないとわからない」。「分ける」とは思考の起点をつくるための手法である。

分けてもわからないと知りつつ、今日もなお私は世界を分けようとしている。それは世界を認識することの契機がその往還にしかないからである。

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

同じ言葉が本書にもある。

分類したとしても、オブジェクトに関して何かが解明されるというわけでは必ずしもない。そのとき、私たちヒトは、オブジェクトが存在する現象世界を認識するためにのみ分類していると言わざるを得ない。

 そもそも、分類とはなんだろうか?生物分類学ケーススタディとすれば、「分類とはなにか?」という問いは、分類されたのちのオブジェクトを疑問の対象とし「種とはなにか?」という問いに置き換えることができる。
 種は実在するだろうか?つまり、種というグループが自然界に存在しているのか、あるいは単に人間がそのようにグループ分けしているに過ぎないのだろうか?
 種という概念がつくられたころには、このような問いは立てられていなかっただろう。聖書によれば、種というグループは前提概念となっているからだ。
 混沌とした分類学に光をもたらしたのがシステム論。遺伝子、個体、種、生態系という階層構造を構成する物質的なシステムの挙動を記述するラベル、それが種だ、ということである。外見的な類似性でなく、機能的なまとまりとしての種という考えが登場した。
 こうして分類という手法を見てみると、意味のある(=メカニズム解明に役に立つ)分類とは、機能としてのまとまりを捉えた分類であると言える。
 では、外見的な分類が意味のある分類にならないか、というと、決してそうではなく、むしろ生物分類学がそうであったように、外見的分類と機能的な分類は交わる部分がかなり多い。ので、ゼロから始める場合は、外見的分類→そのまとまりにおける機能を明らかにする→そこでの齟齬を修正するように機能的な分類を再度行う、というサイクルが有効ではないか。これはちょうど、生物分類学が辿ってきた歴史でもある。