わたしを離さないで

「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ)読了。
幼少期の曖昧な世界が拡張し、輪郭がはっきりとしていく感覚。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 ラブストーリーだと思っていると、ドライな感覚に驚く。SFだと思っていると、もっと根源的なところを突いてくる。ミステリーだと思うと、抑制のきいた切迫感に追い詰められる。僕らはどうやって大人になってきたのかな、という話であり、自らの「生」をどう生きるのか、という話である。
 ある小説に「なにが」描かれているか、というのは一言で言えるものではないと思うし、それに意味があるかもわからないが、僕はこの小説では、子どもが大人になっていく過程で、どのように世界の輪郭を捉えていくか、ということが丁寧に描かれていると思った。
 幼少期に捉えている世界というのは、今になって思えば、ひどく曖昧で、笑ってしまうようなエピソードも多い。それが、年齢を重ねるに連れて、「世界とはこういうものなのだ」というリアルな輪郭を持った存在として現れてくる。今の僕の言葉のように抽象的に書くことは簡単であるが、これを具体的に、エピソードをもって描くのは困難を極める。
 幼少期に特有の「世界の輪郭の曖昧さ」を描くということでは、恩田陸などがすごくうまいと思う。ただ、恩田陸は時間軸が固定されているため、世界が閉じられていて、世界が拡張することはない。よって、変化の過程を描くことは稀だ。その点、本作は、世界の捉え方の変遷を、連続感をもって、自然に描けている。ふつう、これをやろうとすると、膨大な紙数を費やすことになり、ちょっと読みたくないな、という量になったりする。これを、ハードカバーで300ページ程度に収めてしまう、コンパクトに読めるサイズに落とし込めてしまうところが、凄い。もちろんそれは、登場人物を特殊な存在とし、特殊な環境に置くことで、人生を加速しているからにほかならない。だから、これは特殊な人達の、特殊な話ではない。普通の人の、普通の人生である。特殊なシチュエーションをつくりだすことで、逆に普遍的な話を描く、という手法なのだ。
 人間をリアルに描くことにこだわったのだろう、と想像できる。例えば、似たような舞台装置をセットした作品として、「アイランド」という映画がある。Wikipediaのあらすじの最後にはこう書かれている。二人は生きる尊厳と自由を求め、彼らを抹殺しようとする経営者達からの逃避行を図る。そう、ふつうはこうなる。ただ、それはやっぱり「つくられたお話」の世界であって、お話の掟に従うだけの金太郎飴である。そんな人生を歩む人はほとんどいない。人は運命にいかに抗うか、ではなく、人は運命にいかに流されてしまうか、ということをリアルに描いた作品というのは、なかなかないんじゃないだろうか。