天災と国防

「天災と国防」(寺田寅彦)読了。
天然の研究者にならないために。

天災と国防 (講談社学術文庫)

天災と国防 (講談社学術文庫)

 東日本大震災を受け、6月に発行された本書は、天災に関する寺田寅彦のエッセイを集めたものだ。関東大震災の時の記録を読むと、僕が3月11日に歩いたのとほぼ同じコースを辿っており、ほとんど同じような感想を持っていたのが興味深い。人の行動や地域の特性のようなものは1世紀やそこらでは大きく変わるものではないのかもしれない。逆に言えば、大きく変わっているところは脆弱性が高いと言うべきか。
僕は、自身の研究アプローチゆえ、「現場を見る」ことにはこだわりがある。

関東地震のあとで鎌倉の被害を見て歩いたとき、光明寺の境内にある或る碑石が後向きに立っているのを変だと思って故田丸先生と「研究」していたら、居合わせた土地の老人が、それは一度倒れたのを人夫が引起して樹てるとき間違えて後向きにたてたのだと教えてくれた。うっかり「地震による碑石の廻転について」といったような論文の材料にでもして故事付けの数式をこね廻しでもすると、あとでとんだ恥をかくところであった。実験室ばかりで仕事をしている学者達はめったに引っかかる危険のないようなこうした種類の係蹄が時々「天然」の研究者の行手に待伏せしているのである。

 「天然の研究者」という表現が言い得て妙である。この「天然」のニュアンスは「天然ちゃん」か「天然ボケ」に近い。計算されたボケで「地震による碑石の廻転について」の方程式を立てるのはネタとしては面白いだろうが、マジになってやってはいけない。シミュレーションを回しさえすれば良い、というスタンスが最も危険だ。
 津波の被災地に行ったときのことを思い出す。瓦礫の散乱する場所、瓦礫のほとんどない場所。津波はどういう流れで動いたのか?瓦礫のない場所には津波が到達していない?本当に?人も瓦礫を動かす。自分の想定している外力だけが物事を動かしている、と想定することは極めて危険だ。もちろん、科学に限らない。
 これも被災地調査のときの話。タイヤ畑があった。無数のタイヤが「生えている」のだ。ふつう、タイヤは横向きに倒れているものだろう。それが、立っている。しかも、偶然ではない。ほとんどのタイヤが生えているのだ。さあ、なぜだろうか?
 僕らが出した結論はこうだ。津波のあと、窪地では冠水し、緩やかに水が引いていく。散乱したタイヤは一部に空気が溜まると、空気の溜まった部分を上にして、直立した状態で水に浮く。水が引くのと同時に、砂やシルトがタイヤの内側下部に溜まる。タイヤの周囲にも土砂が溜まれば、タイヤは直立した状態で安定し、タイヤ畑が完成する。
 なぜ、「わかった」のだろうか?水と土砂の動きを専門にしているからだ、という答えはそれなりに正解かもしれない。しかし、重要なことは、「なぜタイヤが生えているのだろうか?」という問いを立てたことだ。この問いは、タイヤが垂直に立っていることの不自然性を感じた上での観察と、それが自然の外力によって生じるだろうという予断を含むセンスがないと生じてこない。
 瓦礫の広がる荒野からタイヤ畑の不自然性を眼で抽出するのは、おそらく難しいことと思われる。そんなはずはない、と思うかもしれないが、文章や数式として切り取られた事象には、なにかを解明するという一連の行為から「視点を選択する」というステップが欠落している。これが「天然」の成立可能な理由である。