「甘え」の構造
『「甘え」の構造』(土居健郎)読了。
「甘え」という言葉は日本にしかない?
- 作者: 土居健郎
- 出版社/メーカー: 弘文堂
- 発売日: 2007/05/15
- メディア: 単行本
- 購入: 11人 クリック: 54回
- この商品を含むブログ (64件) を見る
「甘え」は私にとってさしずめ打出の小槌のごときものであった。
優れた日本論として読む−「甘え」という言葉は日本にしかない?
驚くべきことに(というのも今更だけど)、欧米には「甘える」に相当する言葉がない。
この母親は日本生れの日本語の達者なイギリス婦人であったが、たまたま話が患者の幼年時代のことに及んだ時、それまで彼女は英語で話していたのに急にはっきりとした日本語で、「この子はあまり甘えませんでした」とのべ、すぐにまた英語に切りかえて話を続けた。
こういう話し方をできる人もすごいなと思う。昔、大学の講義か何かで、脳のなかには言語のスイッチがある、という話を聞いた。例えば、日本語と英語が話せる人は、日本語のスイッチを入れて話す。英語を話すときには、英語にスイッチを切りかえて話す。これが正しいのかどうかはわからないけれど、もしそうだとすれば、扱える言語の数が多ければ多いほど、多様な概念が表現できるのかもしれない。多様な表現ではなく、多様な概念である。
一般に、日本人は外国の文化・言語・技術などを受容するのがうまいと言われる。著者は、これも「甘え」によるものではないか、という。「甘え」というのは「とりいる」ことである。西洋的には受容≒服従であり、到底受け入れがたいことであるのかもしれない。確かに、キリスト教は現地の「神」を取り込んでいったいったが、それは例えば「悪魔」や「邪神」としてである。消化しきれていないのだな、と思う。
「甘え」の話に戻る。日本人は無関心に見えるときも常に注意を外に向けており、それが無視できないものであると気づくと、周囲と同一化し、取り入ろうとする。これは、「甘え」というメカニズムの延長線上にあることだという。
なお、日本人論として読むのであれば、たびたび本書で引用されるベネディクトの「菊と刀」は必読である。「応分の場」や「恥の文化」なしでは「甘え」は語ることができない。
時代の名著として読む−「甘えたがり」の時代
本書が発行されたのが昭和46年だから、1971年か。時代で読む、ということになると、たいてい「最近の若者は甘えてばかりだ」という論調になるのでは、とやや警戒したが、さすがにそんなことはなかった。むしろ、「甘え」が欠如しているのではないか?そのような問題提起であった。
なぜか?「甘え」は「甘える人」と「甘やかす人」の両者で成り立つ。ということは、両者のバランスが崩れれば、甘えバランスは崩れてしまう。「甘えられたい」「甘やかしたい」という欲求もそれなりに理解できる。個人がどちらかの属性になる、というよりは、シチュエーションにより、甘える側か甘えられる側に変化するだろう。親と子、先生と生徒、恋人同士、好きな状況を思い浮かべてもらえば良い。
甘えたい人間ばかりがふえて、甘えを受けとめる人間が極度に減ってきていることが原因している
著者はこのように言う。鋭いな、と思ったのは後半だ。「甘えたい人間が増えた」というのは皆が気づいている。しかし、そのように言うのはたいてい甘えられる側の人間である。みな自らの問題を指摘したがらない。「甘えたがり」の時代では尚更だ。甘えられる側の人間は、「甘えを受けとめる人間が減った」ことを指摘したくない(=自分たちの問題として捉えたくない)だろう。
こういう主張の難しいところは、本当にそうなのか、という検証がほとんどできないところと、加えて、それが良いことなのか悪いことなのかという価値判断がかなりばらつくことだろう。事実ではなく主張だ、という認識はあってしかるべき。