フラジャイル

「フラジャイル 弱さからの出発」(松岡正剛)読了。
なぜ、「弱さ」は忘れ去られてきたのだろうか?

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

目次
1 ウィーク・ソートで?
2 忘れられた感覚
3 身体から場所へ
4 感性の背景
5 異例の伝説
6 フラジャイルな反撃

 ニーチェと並行して読んでいたので、かなり不思議な読後感だった。フラジャイル。シャーペンの芯のように、あるいは賽の河原の積みあげられた小石のように。壊れやすいものの感覚。これらは「弱さ」によるものだ。ところでいったい、「弱さ」とはなんなのだろうか?人間は(僕は?)あまりにも「強さ」に固執しすぎていた。強くなりたい、と願うばかりに見ないようにしてきたものがある。それが「弱さ」だ。いったい、「弱さ」とはなんなのだろうか?そういうものの系譜が存在するのだろうか?「強さ」にはなくて「弱さ」にはあるものはなんだろうか?松岡正剛による「弱さ」の編集が始まる。

劣等感は「劣っている」という自覚によるものではない

 僕はなんて弱いんだろう。そう考えているときに感じる感覚。そう、劣等感だ。しかし、松岡正剛は「劣っている」と自覚するから劣等感を抱くのではない、と言う。それは、「まさかの葛藤」によるものだ、と。どういうことか?
 「いや、結構いけるんじゃないの?」仕事でも、勉強でも、恋愛でもなんでもいい。思いあたることがあるだろう。ひょっとしたらうまくいくかもしれない。そう考えると妄想は進行し、自分が活躍する姿を想定しすぎてしまう。まさかそんなことはないだろう。いやでも、ひょっとしたら。しかし、失敗は訪れる。やってしまった。しまった。やっぱり。やらなければよかったのに。
 うわー。感情移入して書くと、自分でもかなり嫌な気持ちに。もちろん、こうした事態は好転することもあるが、それは記憶に残らず、嫌な感覚だけが脳裏にこびりつくことになる。これが、「まさかの葛藤」、劣等感に結びつくのだという。
 これって、克服できたりするものだろうか?個人的には、昔より忌避感は低い。「それほど他人は自分に注目していない」と言い聞かせてきた結果かもしれないし、場数を踏んだからかもしれないし、単純に力をつけるようにしたからかもしれない。しかしそうはいって、それは「強く」なったと言えるだろうか?はたしてそれは、良いことなのだろうか?忘れ物はないの?

卑しめられる身分であるからこそ、神聖である

 歴史は強者のもの、というが、強者は弱者がいなければ成立し得ない。強者の綴る歴史のなかにも、弱者は登場する。そこでは、弱者は必ずしも弱者的に描かれている訳ではない。
 松岡正剛が例として挙げたのは今昔物語。そこでは、不具者が観音菩薩の化身とみなされていたり、そうした者たちに施しをするときは一礼したりするような儀式が存在していたという。確かに、言われて見れば。日本人はそのような感覚がよく理解できるだろう。現実では見ないにせよ、物語のなかではたまに描かれるものだからだ。
 つまり、不具者には「不浄」であると同時に、「神聖」であったということになる。卑しい身分のものであったからこそ、神聖なものに変身する。そういった社会的な約束が存在したということだ。このように、弱者は境界を跨ぐことがある。
 もっと一般化すると、ロラン・バルトの出した原理に辿りつく。すなわち、

人間の演ずる行為は、容認された差異の関係システムを前提にしているものである

「強さ」の神話

 そういった話がつらつらと続き、松岡正剛はまるで手品師のように、「弱さ」から色々なものを取り出してみせる。ほらね、と。しかし、一般的にそのような試みはほとんど行われない。なぜか?それは、「弱さ」がフラジャイルなものだからだ。あまりにフラジャイルだから、触ったら壊れてしまう。だから、「重要な契機」を裏に閉じ込めてしまう。でも、そんなに重要なら、そういう試みがもっとたくさんあってもいいじゃないか?

私の見方ははっきりしている。われわれはいつかどこかで「強さ」の神話を刷りこまれすぎたのである。すでに第五章「異例の伝説」で明らかにしたように、ほんとうは人類は「弱さ」をめぐる大事な神話をいろいろもっていたはずだった。それがいつのまにか忘れ去られ、すべての神話と伝説に「強さ」が君臨するようになったのだ。

「弱さ」からも取り出せるものがある。忘れないようにしたい視点だ。フラジャイルな「弱さ」を直視できる程度には、「強く」なったのだから。