善悪の彼岸

善悪の彼岸」(ニーチェ)読了。
「人間」を捧げ、「自然」を捧げ、そして……

善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫)

善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫)

第1篇 哲学の先入観について
第2篇 自由な精神
第3篇 宗教的なもの
第4篇 箴言と間奏曲
第5篇 道徳の博物学のために
第6篇 われら学者たち
第7篇 わたしたちの徳
第8篇 民族と祖国
第9篇 高貴なものとは
高き峰々より―結びの歌

 例によって、光文社古典新訳である。ツァラトストラを読んだときと比べ、はるかに読みやすかったが、それが(1)僕がニーチェの思考に馴染んできたから(2)そもそも「善悪の彼岸」は「ツァラトストラ」の内容をわかりやすく書いたものだから(3)やっぱり光文社古典新訳が読みやすい訳だから、あるいはそれらの複合的なものなのか、よくわからない。

無意識的な価値判断のワナ

 なんといっても第3篇までが肝である。そもそも「ツァラトストラ」の解説書として書かれた部分であり、それ以降は断片の寄せ集めのようにすら見える。

確定的なものは不確定なものよりも価値が高いとか、仮象は「真理」よりも価値が劣るという評価があるが、こうした評価はわたしたちにとっては何かを規定するという意味では重要であるが、実際には前景的な評価にすぎないのであり、わたしたちのような存在が自らを維持するために必要なある種の愚かしさにほかならない。

僕らは無意識的に価値判断をしている。しかもそれは、一般的にそのように言ったときよりもかなり深いオーダーの話だ。「強さ」のほうが「弱さ」よりも価値があると無意識的に価値判断するから、「強さ」のことばかり考えて、「弱さ」を考えることをすっかり忘れてしまう。それにしても、ここでニーチェが「前景的な評価」を「自らを維持するために必要」と言ったところには、彼が自らの主張を極めてリアリスティックに唱えているのだな、ということがわかる。ところかまわず凶器を振り回しているだけではないということだ。

欲望の抑圧

 ニーチェキリスト教が大嫌いだ。しかし、彼が攻撃しているのはキリスト教そのものではなく、「真理」を崇拝し、自らを捧げてしまう姿勢である。宗教に対する攻撃で、最も核心をついていると思ったのはここだ。

宗教的な残忍さという大きな<梯子>がある。そこには多くの<段>がついているが、そのうち次の三つのものが最も重要である。かつては自分たちの神に、人間を犠牲として捧げたものだった。(中略)次に人類の道徳時代が訪れると、人々は神に人間のもっとも強い本能を、「自然」を捧げたのである。(中略)最後に犠牲に捧げるべきものとして何が残ったか。人々はついに未来の至福と正義のために、すべての慰めを与えてくれるもの、聖なるもの、癒しを与えてくれるもの、すべての希望を、隠された調和へのすべての信頼を捧げねばならなかったのである。

 2つ目に注目したい。人間の欲望のうち、僕らがコントロールしなければならないと考えているもの。危険を冒したいと思う欲、相手を支配したいと思う感情、ある種の狡猾さなど。いわゆるデュオニソス的なものが無秩序に出てくるのは流石に困ったものだけど、それにしても抑圧されすぎているんじゃないのか?
 こうした欲は、もつ人間の自然的な部分だ。本来、社会全体の敵に対抗するために存在したのだ。それが、宗教により抑圧されている。宗教そのものではなく、ルサンチマンが元凶なのだ、ということは現代の日本でも抑圧が起きていることからわかる。「嫌儲」とか、「リア充爆発しろ」とかね。

怪物との闘い

 第9編「民族と祖国」あたりになると、かなり過激な発言も出てきて、これじゃあナチスにも利用されるよな、という感じ。彼らは怪物になってしまったからね。そうそう、有名な一節も本書にある。

怪物と闘う者は、闘いながら自分が怪物になってしまわないようにするがよい。長いあいだ深淵を覗き込んでいると、深淵もまた君を覗きこむのだ。