台所空間学

「台所空間学座談会」(山口昌伴ほか)読了。
食文化に注目が集まる今日、台所だけが取り残されている。

座談会 台所空間学

座談会 台所空間学

目次
第一章 いまは昔の食の風景
第二章 どこへいった、「味」と「台所」
第三章 そこでだれが作ってだれが食べるか
第四章 台所開眼―デザイナーおおいに語る

 先日、渋谷の古本市で偶然見つけた一冊だ。台所空間学 (コンフォルト・ライブラリィ)という本の評判は前から聞いていたのだが、その座談会バージョンということで、迷わず購入した。「台所」を注意深く眺めると、日本人の食文化と生活がまったく新しいものとして見えてくる。

台所ってなんなのだろう?

 台所とは本来的にはなんだったのか?そんなの、料理をつくる場所に決まっている?実は、僕らが今考えている台所と、そもそもの台所には大きな隔たりがある。
 台所は、屋外である。今でこそ部屋の一部となっているが、「お勝手口」とつながっていた台所は、内というよりは外であったのだ。そのお勝手口を通して外の畑と連結していて、畑は食料貯蔵庫として機能していた。父の実家に行くと、今でも祖母がそうして利用しているが、システムキッチンとのチグハグさは否めない。
 もうひとつ、台所は、食糧を加工する場所である。確かに、台所は料理をつくる場所でもあったが、同時に梅干しとか、漬物とか、干物とか、そういう保存食品をつくる場所でもあった。そのために、大量の食材を処理できる広いスペースが確保され、なにより広い「台」があった。今では、台すらない台所もある。そう、僕のアパートの台所のことだ。
 こんな感じで台所が担ってきた機能は、システムキッチンによって、バラバラに解体されてしまった。別に、それでみんなが楽になったなら、それでいいじゃないか、という気もする。しかし、そうではないのだ。個々のツール、つまり電子レンジしかり、IHクッキングヒータしかり、電子ポットしかり、そういったものは確かに便利になっているが、人間のできることを、やりたいことを、快適に行うことができるように、それらがトータルコーディネーションされていないということだ。それらは今でも個々のツールであって、人間の生活を最大限拡張するようには、デザインされていない。当時の台所には、それがあった。過去に戻れ、というのではない。現代技術に見合うだけの台所が、生活スタイルが確立されていないのである。
 日本人の食文化に対する意識は高い。栄養バランス、有機食品、無農薬野菜。調理器具に対する関心も高い。しかし、台所となると、「きれいなシステムキッチン」くらいの要求しかない。食文化を決定するインフラがこれでは、ということである。

キッチンとダイニングは別で!

 個人的にツボだったのは、第三章「そこでだれが作って、だれが食べるか」。座談会だから、いろんな方のお話が聴けるのだが、「食いしん坊の民俗学者」であり、「鉄の胃袋」をもつと紹介される石毛直道さんの話は圧巻。なにせ、

リビアの砂漠で探検隊の人たちが、みそ汁や刺身を想い描いてふさぎこんでいる、そんなところへ石毛さんがタラの干物でしたか、それを秘術を尽くしてモドシて生の刺身かとみまごうばかりのものに仕立てて食卓に出したら、一同涙流して喜んだっていうエピソードを聞いてます。

なんだこれ。料理漫画も裸足で逃げ出すエピソード。そんな石毛さんは、ダイニングキッチンというのは、台所が汚れない文化のなかでできたものだ、という。ヨーロッパが鍋のなかで料理を完成させるのに対して、日本の食文化は基本的に長い下ごしらえを必要とする。そうすると、日本の台所はきれいではいられない。そうした「汚い台所」がダイニングと共存するのは食文化に反しているのである。

 下ごしらえが長い一因は、日本の食文化が、保存食から新鮮食品へと変わってきたということもある。これは初めて知ったのだが、寿司というのは、そもそも発酵食品だったそうだ。近江の熟鮨が原型である。つまり、魚を保存するために米で発酵させる。それがいつしか、生熟で食べるようになる。これが押鮨。最終的に、生の魚を酢飯で食べるようになり、それが今の寿司なのだとか。

 結局、技術と社会の進展にデザインが追いつけていなくて、そのしわ寄せは変化の遅いものに集中する。食文化では、それがハードである台所であったということだ。多少の摩擦があったとしても、そう簡単に変えるわけにはいかない。だから、課題が山積する。そういう構図である。