伝統との対決

「伝統との対決 ― 岡本太郎の宇宙3」(岡本太郎)読了。
法隆寺は焼けてけっこう」ってどういう意味?

法隆寺は焼けてけっこう」

 「芸術は爆発だ」と並んで有名なこのフレーズ。1949年に壁画が焼失してしまった法隆寺に対して言い放った言葉である。しかしながら、法隆寺は焼けてもよい、と言ったのは岡本太郎だけではなかった。

法隆寺平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい、我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。

こう言ったのは、坂口安吾だ。しかも、これは1942年、つまり焼失事件の前に言っているのだ。じゃあ、岡本太郎の発言はこれのコピーに過ぎないのか?もちろん、そんなことはない。続く言葉が、違うのだ。坂口安吾法隆寺は焼けてもよい、そんなんじゃ伝統は亡びないからね」と言った。それに対し、岡本太郎はこう言ったのだ。

法隆寺は焼けてけっこう。嘆いたって、はじまらないのです。今さら焼けてしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないってことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。自分が法隆寺になればよいのです。

法隆寺は焼けてもよい、自分が法隆寺になればいいんだから」坂口安吾岡本太郎との「続く言葉」を比較する話は、美術評論家山下裕二による、本書の解説にある。この「続く言葉」の比較から考えると、岡本太郎が「伝統」をどのように捉えていたか、よくわかる。

 

「伝統」の前に跪くな!

 「伝統だから」という理由だけで、盲目的に跪くこと。それはやってはいけないことだ。過去はあくまでも口実に過ぎなくって、過去のものだからスゴイモノというわけでは、決してない。自分がほんとうに心を揺さぶられたものに対してだけ、感動すればいい。そして、自分が次の伝統を担うのだ、という自覚をもつこと。それだけが、必要なことだ。要約すると、こんな感じだろうか。
 弥生式土器が日本の伝統で、縄文式土器は野蛮で伝統とは言いがたい?本当にそうか?岡本太郎はそこにNOを叩きつける。縄文式土器こそ、人間の生命感が溢れているのだ。枯山水みたいなものが本当にスゴいのか?伝統だ!ともてはやされているものは本当に価値のあるものなのか?そういった視点で「伝統」をバッサバッサとなぎ倒していく姿には憧れすら覚える。

もはやparticularでない伝統

 これまで、「伝統」はparticularであった。アクロポリス、ピラミッド、仏教芸術。ある一定の地域の、一定のまとまった人々による文化。岡本太郎は、これがparticularだと言っている。そうではなく、

民族とか国境とかいう狭い枠をぬきにして、今日の血肉となっている過去、現在的な感動をもってわれわれが関心をもつすべては、われわれの受けた遺産である。そしてその遺産は、その受けるものの分量において無限にひらかれている。

この遺産に立脚した「世界的な」伝統を打ち立てるべきだ、という。つまり、過去の人々は、自らの世界すべてと向き合っていた、ということだ。過去の人々にとって、背負っていた世界は「すべて」だった。ピラミッドをつくった人は、「すべての」世界を背負って、「今日的な」問題に向き合っていた。
 しかし、その規模というのは、当時の世界であったから伝統足り得たのであって、今の、グローバル化した、小さくなった世界においては、当時のやり方、規模感、スケールであっては、次の伝統になることはできない。
 ローカルなコミュニティに、あるいはローカルな文化に価値があるのだ、などと主張しても、そのローカルさは、過去の時代で成功した「ローカルさ」とはすでに異質なものだ。異質でなかったら、それは過去に価値の「あった」ものだ。グローバルな環境がすぐそこまでせまっているローカルな文化は、新しいローカルに生まれ変わらざるを得ない。生まれ変われなかったものは亡びるしかないが、その対峙によって新たな道を見つけたものは、次の時代の伝統となる可能性を帯びるだろう。