プランク・ダイヴ

プランク・ダイヴ」(グレッグ・イーガン)読了。
閉塞感が、異質な存在と出会うことで打開される。

プランク・ダイヴ (ハヤカワ文庫SF)

プランク・ダイヴ (ハヤカワ文庫SF)

 ようやく読んだ!出るぞ出るぞということで、待ちに待ったイーガンの新作。9月の発売直後に買ったものの、忙しくなり積ん読でした。
 全体を見ると、イーガンにしてはおとなしい感じのストーリーが多い。「祈りの海」とか「しあわせの理由」とかと比べると、アイデンティティ揺すぶられ度はそんなに高くない。その分、SF的ハードさはけっこう高いような。「暗黒整数」はハードすぎてヤバイ。力の入れどころを変えたのかも。以下、気になった短編にのみ感想。あ、もちろんネタバレはあり。

クリスタルの夜

 シミュレーション上の生命を、人の手で淘汰圧をかけ、死に至らしめるのは許される行為か?というような話。まあ、イーガンなんで、「シミュレーション上の生命」は最終的に、人類を上回る科学レベルに到達し、自分たちの全存在基盤をかっさらって、造物主の手から離脱するわけだけど。「あとがき」にはこうある。

イーガンは(中略)自分のサイトで「今後、現実に人工知能のコンピュータ内進化を試みる人が出てくるだろうが、そのとき知性を持つプログラムの生殺与奪を弄ぶのは忌むべき行為でないか」という趣旨のことを書いた。ところがそれに対するネットの反応は、そんなことはなんら問題ではないという論調のものが目立ち、イーガンは大いに驚いた。

これは、どうなんだろう?「順列都市」みたいな世界を肯定するなら、人間の本質は、情報として扱うことのできる、ある種の思考パターンであるということになるわけだけど、そうすると、シミュレーション上で意識を持っている存在も、人間とまったく変わらないはずだ。
 それを人の手で消滅させることが許されるなら、極論を言えば、殺人が許容されることになる。肉体的ではないけれど。じゃあ、許容されないとして、どこからが許容されないのかっていう、例の境界の話になってしまう。コンピュータ・ウィルスを生命として認める人はたぶんいないよね……

ワンの絨毯

 「ディアスポラ」に出てきたファーストコンタクトのアイデアを切り出して、短編にしたもの。これも、「クリスタルの夜」に近いアイデアで、人類のファーストコンタクトが、高分子によるシミュレーション上の生命だった、というもの。そのアイデア自体もかなり楽しいけど、考えるところはおそらく別にあって、僕が「ディアスポラ」を大好きな理由でもあり、

けれど、ぼくらはこの先どうなるだろうとじつは自問しつづけている。歴史は道を示してくれない。進化もぼくらを導いてはくれない。C-Z憲章にいわく、『宇宙を理解し、尊重せよ』……でも、どんな姿で?どんなスケールで?どんな種類の感覚や精神を持って?(中略)ぼくらは道を見失うことなく、宇宙を探検していけるだろうか?

というような。持続可能性がほぼ充足されたとき、人間はどこを目指すの?という話。もちろん、銀河系の持続可能性とか、そういうスケールアップした生存可能性はやっぱりあるんだろうけど、万能性に伴う閉塞感は当然あるんだろうなって思う。
 そういう閉塞感が、異質な存在と出会うことで打開される、と。「まったく別の可能性があるんだ!」というのは大事だね。個人レベルの話から、文化どうしレベル、地球外レベル、どのスケールでも同じ構造をしている。だから、「探検」は意味のある行為なんだろうな。

プランク・ダイヴ

 あるポリスの住人は、宇宙を最深のレベルで理解し、その美しさに触れるため、プランク・ダイヴを決行する。それは、ナノマシンに自分のクローン人格をインストールしてブラックホールへ飛び込む、というもの。しかし、それで十分だろうか、ただ自分たちが見るだけで、それを外の世界に持ち帰れないとしても?
 いや、意味ないようにしか思えないのだけれど。被クローン側はそれでもいいんだろうけど、クローンするプロトタイプはなにも得られないはずで、それでなにか意味があるのかなあ?物語としては古典的な造形で、アイデアの先進的な感じと対比していて、綺麗な作品。

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)